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古本夜話1120 正宗敦夫と『日本古典全集』

 『世界名著大事典』第六巻の「全集・双書目録」を繰っていると、『日本古典全集』も見つかり、それによって初めてまとまった大部の明細リストを目にすることができた。ただそれは一ページ半に及ぶので、挙げられないし、またこの全集の揃いは古本屋でも見たことがないので、まずはその俯瞰的な解題を引いてみる。

世界名著大事典〈第6巻〉マラーワン (1961年) f:id:OdaMitsuo:20210118180150j:plain:h110 f:id:OdaMitsuo:20210119173246j:plain:h110(『日本古典全集』)

 日本古典全集(223種、264冊、1926~44)正宗敦夫ほか編集、校訂。国文学、史書を主とし、辞書、遊芸、医書など広範囲にわたり、6期に分けて刊行。間々異文を校合し、各巻ごとに創意に富む解題を付している。第1期48種50冊、第2期72種50冊、第3期25種50冊、第4期44種25冊、第5期20種37冊、第6期14種52冊。ただし第6期は50冊の予定が中絶したものである。古典全集刊行会刊。

 この中で九冊刊行の『狩谷掖斎全集』第一、二、三、五、七巻の五冊を入手している。それは二十年ほど前になるが、梅谷文夫『狩谷棭斎』(吉川弘文館)を読んだ直後に、古書目録で見つけ、購入したのである。あらためて先の「同目録」と照合してみると、それらは大正十四年から昭和三年にかけての第1期と第2期に当たるもので、文庫という判型は変わっていないけれど、赤い表紙の装幀は異なっている。そのことも含め、言及してみる。ただ狩谷に関しては差し控える。

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 私はかつて「正宗敦夫の出版事業」(『古本屋散策』所収)で、この全集ではなく、「歌文珍書保存会本」の別巻と見なせる井上通泰『万葉集新考』を取り上げている。これは昭和三年にやはり国民図書から全八巻で再刊されているようだ。それはともかく、ここであらためて、『日本近代文学大事典』における正宗の立項を引いてみる。

古本屋散策

 正宗敦夫 まさむね・あつお 明治一四・一一・一五(戸籍上は三〇日)~昭和三三・一一・一二(1881~1958)歌人、国文学者。岡山県生れ。正宗白鳥の弟。高等小学校卒業後、上京して井上通泰に歌を学ぶ。旧派風で寡作、わずかに歌集『鶏肋』(大四・一私家版)と、それ以後の作を合わせた正宗甫一編『正宗敦夫歌集』(「清心国文」昭三四・三 二号所載)がある。歌文珍書保存会、日本古典全集会など、古典籍普及の事業に尽くし、また『万葉集総索引』(昭四~六)や遺著『金葉和歌集講義』などの労作がある。(後略)

 このように「古典籍普及の事業に尽くし」たとして立項されているとともに、歌人の吉崎志保子が『正宗敦夫の世界』(私家版、平成元年)を刊行し、そこに「日本古典全集の刊行」由来を記している。また兄の白鳥も『人間嫌ひ』(『正宗白鳥全集』第四巻所収、新潮社)で、弟とこの全集にふれ、吉崎もこの小説に言及しているので、それらを参照し、『日本古典全集』の経緯と事情をたどってみたい。

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 大正十年に与謝野寛は第二次『明星』を発刊するが、そこに正宗は短歌やエッセイを寄せ、歌会に参加する。そうして与謝野夫妻と親交し、その過程で、寛による西洋の文庫を範とした『日本古典全集』の企画が持ち上がったようだ。吉崎によれば、同十四年九月の『明星』に、与謝野夫妻と正宗を編纂、校訂者として、『日本古典全集』刊行趣旨が掲載され、「我国のあらゆる古典中より、一般文化人として、専門の学徒として、必読すべき代表的の書物全部を選択し」、「原書五百種、本書一千冊」を刊行予定とするものだった。

 前述した『狩谷掖斎全集』第一巻の『校本日本霊異記』は確かに編纂校訂者として三人の名前が並び、大正十四年十一月刊行ので、初期配本に位置づけられよう。奥付は「非売品」とあるので、『日本古典全集』が円本と同じ予約出版で流通販売されたとわかる。発行者は長島豊次郎、発行所は日本古典全集刊行会で、住所はいずれも東京府北豊島郡長崎村となっている。また印刷所の新樹製版印刷所、印刷者の高瀬清吉の住所も同じので、長島と高瀬は与謝野と『明星』の関係者のように思われる。

校本日本靈異記他 (覆刻日本古典全集) (『校本日本霊異記』、現代思潮新社覆刻)

 検印のところに押されているのは読み取れないだが、「万という単位で印税が入」り、「与謝野夫妻は印税の前借の形で金を借り、荻窪に洋風の邸宅を新築」と吉崎が記していることからすれば、与謝野の印だと考えられる。吉崎の記述は白鳥の『人間嫌ひ』に基づいているのだが、これは戦後の作品もあり、白鳥の思い込みよるもの、もしくは彼女の記す出版史から判断すると、このような印税に関する言及も、どこまで信憑性があるのか、少しばかり疑問も生じてしまう。だが第1期、第2期までの七一冊までは三人の共編で出し、それ以後
正宗が一人で編纂したというのは事実だと思われる。それはつまり与謝野夫妻が煩雑な出版実務と編纂の手を引いたこと、及び出版者の問題もあったとされる。

f:id:OdaMitsuo:20210119171148j:plain(『日本古典全集』第1期)

 それは昭和二年と三年の『狩谷掖斎全集』第五巻、第七巻も顕著で、前者は三人の編纂だが、同じ検印があり、発行者は麹町区永楽町丸ノ内ビル内の株式会社日本古典全集会と関戸信次、後者は正宗一人、検印はなくなり、発行者も再び長島と日本古典全集刊行会に戻っている。そこに推測できるのは白鳥が書いているように、初期の成功を受け、寛が派手にやろうとして、小林一三などにも出資を仰ぎ、株式会社化したのだが、会社と寛の間が決裂し、破綻してしまったという事実である。そのことで、『日本古典全集』の仕事は正宗が一人で負うことになったのである。

 なお『日本古典全集』『世界名著大事典』では264冊だが、『正宗敦夫の世界』では266冊、『全集叢書総覧新訂版』では263冊とされていることを付記しておく。

全集叢書総覧 (1983年) 


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