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出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1125 正宗白鳥『人間嫌ひ』、坪内逍遥訳『新修シェークスピヤ全集』、松本清張『行者神髄』

 本探索1120で挙げた正宗白鳥『人間嫌ひ』はまったく読まれていないだろうし、『近代出版史探索Ⅴ』854の『人間』の、昭和二十四年における連載時の評判に関しても伝えられていない。
ただイニシャル表記であっても、戦後の混乱と再生の中にある出版界の出来事、新興出版社の内情にもふれているので、それなりに話題になったと想像することはできる。
近代出版史探索V

 そうした出版社にC社=中央公論社があり、C誌=『中央公論』の編集推移と歴史、戦後における前社長A氏=麻田駒之助と後の社長S=嶋中雄作の死が語られている。そして嶋中が麻田から中央公論を引き継ぎ、それまでの雑誌だけでは「時代遅れ」だとして、書籍の出版にも「乗出して、二兎を追はう」としたと述べている。だが正宗はルマルクの『西部戦線異状なし』のベストセラーが麻田時代としているが、それは誤認である。『近代出版史探索Ⅳ』603で既述しておいたように、『西部戦線異状なし』のベストセラー化は嶋中が社長に就任した翌年の昭和四年のことで、その中央公論社出版部の処女出版のベストセラー化によって、嶋中はまさに本気で「二兎を追はう」という気になったと考えられる。それで企画されたのが『新修シェークスピヤ全集』であった。白鳥は書いている。

f:id:OdaMitsuo:20180902201601j:plain:h120(『西部戦線異状なし』)近代出版史探索IV

 T先生の「シェークスピア」全訳の新形式の廉価版を、Sは社の大事業の一つとして計画した。これはW大出版部から長年月を費して刊行されたもので、それを他の書店で新たに出版するとなると、W出版部長の許可を得なければならなかつた。それで(中略)出版部長のT博士に出会つたので、その話を持出して許可を嘆願すると、(中略)「君はW校出身者でありながら、出版部の宝としてゐる書物を奪つて行かうとするのは怪しからんじやないか」と、SはT博士に罵倒されたのであつた。

 この「T先生」が坪内逍遥であることはいうまでもないが、「T博士」は高田早苗である。

 こうした経緯と事情は『近代出版史探索Ⅴ』818でもふれておいたように、『中央公論社の八十年』でも、同じく白鳥の証言が引用され、坪内と高田が仲たがいするはめになり、早大文科の有力者金子筑水や五十嵐力の奔走で、どうにか早大出版部を説得し、中央公論社「出版部創設以来の大事業」が昭和八年に実現の運びとなったとされる。

 しばらく前に、浜松の典昭堂で、早大出版部の『沙翁全集』第三十九編『詩篇其二』、及び中央公論社の『シェークスピヤ全集』第二十九巻『マクベス』、第二十四巻『タイタス・アンドロニカス』、第四十巻『シェークスピヤ研究栞』を見つけている。前者は昭和三年初版刊行、四六判上製、定価二円五十銭、巻末広告には一ページに二冊ずつ第一編『ハムレット』から第三十九編までが並び、第四十編が「わが国の沙翁研究社の為に至つて便利な至つて斬新な一著」として今秋刊行予定となっている。これは後者の第四十巻とほぼ同じものであろうし、それらの三冊は菊半截判、奥付の定価は七十銭だが、「予約期間中に限り特価五十銭」とある。

f:id:OdaMitsuo:20210203164227j:plain (『沙翁全集』)ハムレット (新修シェークスピヤ全集第27巻) (『シェークスピヤ全集』第27巻、『ハムレット』)

 早大出版部の『沙翁全集』全四十編は明治四十二年に第一編『ハムレット』から出され始め、先に見たように昭和三年十二月になって第四十編が出され、ようやく完結に至ったことになる。それに前述の巻末広告からわかるように、既刊三十八編はすべて在庫があり、『沙翁全集』は二十年にわたるロングセラーで、まさに名実ともに早稲田大学出版部の「宝としてゐる書物」だったのである。これまでの早大出版部との関係からしても、それを坪内が知らないはずもないし、中央公論社の『シェークスピヤ全集』の企画に高田が怒り、二人が仲たがいするまでになったというのも当然のことのように思われる。

 しかも『沙翁全集』完結の五年後に中央公論社から定価は実質的に五分の一の五十銭という安い文庫版が出されるならば、早大出版部版は売れなくなることが自明だったからだ。 もちろん嶋中が坪内の改訳の意向を承知していても、そうした同じ全集が競合することになる円本時代の出版事情を十分に弁えていたはずだ。それなのにどうして『シェークスピヤ全集』の企画を推進したのだろうか。

 そのことに関して、ずっと疑問に捉われていた。ところが松本清張の坪内逍遥を描いた『行者神髄』(『文豪』所収、文藝春秋、昭和四十九年)を読むに及んで、それが氷解したように思われた。この小説は逍遥が晩年を過ごし、そこで没した熱海の雙柹舎(双柿舎)を訪ねる場面から始まり、そこに『シェークスピヤ全集』全四十巻が備えられているとの記述も見える。
文豪 (文春文庫)
 小説家の「わたし」はある出版社から逍遥の評伝を頼まれ、そのために訪れてきたのだが、そこでやはり見学者である男とであり、彼から逍遥の知られざる内幕を聞かされる。逍遥は『小説神髄』で名をはせ、劇作と演劇運動に新機運を起こし、シェークスピアの翻訳の大事業を完成させ、教育界にも尽くし、功成り名を遂げ晩年を迎えたように見えるが、「悔恨、自己嫌悪、不満、憤り」の一生で、そのために自殺したというのだ。そして彼はさらに逍遥の「鬱憂の状態」にもふれていく。

 「精神病のほうでいる躁と鬱のある鬱憂です。だから彼にはもちろん躁もあった。躁のときの逍遥は、まったく有頂天になっているんですな。その後悔が反動として鬱になる。逍遥の生涯をながめてごらんなさい。躁と鬱の繰り返しですよ。人はそれを逍遥には楽天主義と懐疑主義とが同居しているように書いているが、躁揚と鬱憂とが交互に現われていると見たほうが分りがいい。自殺はその鬱憂の時間的な最高潮であり、クライマックスだったんですよ」

そしてその男は逍遥の生涯に関して、躁揚と鬱憂が交互に出て、その第五期は「家庭児童劇とか舞踊劇を起し、新修シェークスピヤ全集の翻訳にかかるなどの時期から晩年まで」だという。とすれば、昭和四年からその死の十年までである。
 
 それはちょうど『西部戦線異状なし』がベストセラー化した時期と重なり、逍遥が躁揚症に捉われていたように、嶋中もまた「二兎を追はう」とする一種の躁揚状態の中にあり、逍遥と嶋中の躁揚病が相互にコラボレーションし、『シェークスピヤ全集』の企画へと突き進んでいったのではないだろうか。

 『中央公論社の八十年』所収の「年表」をたどり、その関連事項を抽出してみる。
所収の「年表・中央公論社の八十年」を繰ってみると、昭和二十三年のところに、ちょうど入れ代わるように、高梨茂の入社と小瀧穆の退社が記載されている。
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 * 昭和8年6月/『新修シェークスピヤ全集』宣伝のための実行委員会を設置し、宣伝標語を賞金付きで募集。『全集』に全力を注ぐため、新大衆雑誌『諸君』創刊延期。丸之内東京会館で坪内逍遥博士をめぐる会開催。
 * 〃 7月/帝国ホテルで坪内逍遥訳『新修シェークスピヤ全集』を語る会開催。
 * 〃 9月/東京朝日講堂で『新修シェークスピヤ全集』刊行記念文芸講演会開催。
      映画「坪内逍遥博士」上映。この記念講演会と映画上映は全国的に開催される。
      第一回配本として『ハムレット』と『以尺報尺』が刊行。
 * 〃 11月/嶋中雄作社長誕生記念日と『新修シェークスピヤ全集』成功祝賀を兼ね、会社員熱海の坪内博士を訪問し、老夫妻出席のもとに夜、宴会。
 * 〃 12月/帝国ホテルにて、朝野の名士百数十名を招き、『新修シェークスピヤ全集』出版成功記念祝賀会を開催。

 翌年に入っても、まだ続いているが、昭和八年後半だけにとどめる。何か熱に浮かされたような全集キャンペーンだと感じるのは私だけだろうか。

 おそらく嶋中はもはや円本時代は過ぎているのに、遅れてきた書籍出版社として、本探索1062の改造社『現代日本文学全集』などの円本キャンペーンを再現しようとしたのであろう。それは逍遥の躁揚症とともに展開され、『行者神髄』に従うならば、その自殺へとつながる最初の昂揚であったのかもしれない。


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