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古本夜話1128 吉澤義則、武藤欽、文献書院「全訳王朝文学叢書」

 前回の「大日本文庫」の各巻校訂者の名前を見ていて、「文学篇」の『物語文学集』を吉澤義則が担当していたることに気づかされた。

 f:id:OdaMitsuo:20210205114714j:plain:h110  f:id:OdaMitsuo:20210205115424p:plain:h110(「大日本文庫」)

 実はいつか取り上げなければならないと思っていた「全訳王朝文学叢書」の訳者の一人が吉澤だったからだ。まさにその第一巻『堤中納言物語・伊勢物語・大和物語・竹取物語』はすべて吉澤の手になるものだ。

 この「全訳王朝文学叢書」は大正十三年に京都の文献書院内王朝文学叢書刊行会から刊行され、『全集叢書総覧新訂版』で確認すると、全十二巻完結とわかる。第一巻の巻末目録から類推すれば、順不同だが、『源氏物語』が六冊、『狭衣物語』二冊、『落窪物語』『蜻蛉日記・土佐日記・和泉式部日記』『とりかへばや日記』各一冊の内訳である。

全集叢書総覧 (1983年)

 文献書院は『近代出版史探索Ⅲ』542で言及しておいたように、創業者の武藤欽が京都日々新聞初代社長を退いて興した版元で、国文学、英文学書を出版していたとされる。先の拙稿では京都帝大教授の片山孤村『現代の独逸文化及文芸』を紹介しただけだったが、ようやくここで文献書院の国文学書にもふれることができる。

近代出版史探索III

 第一巻の奥付は著作者とて吉澤、発行兼印刷人として、王朝文学叢書刊行会代表者の武藤欽の名前が記され、この「叢書」がやはり公的助成金などを得ての出版であることがうかがわれる。それに武藤が印刷人を兼ねていることからわかるように、文献書院印刷所も経営し、この奥付には見えていないが、本探索1121の五車楼と同じく、東京に支店も出していたのである。それに喜ばしいことに、この第一巻は昭和二年の再版で、それなりに売れたとわかる。そのことで巻末広告にある『国文学名著集』『歌謡俳書選集』といったシリーズも企画刊行されていったのだろう。それらは京都にも円本時代があったことを彷彿とさせる。

 それを支えたのは吉澤を始めとする京都帝大国文科の教授たちだったと思われるし、片山の独文学ではないけれど、武藤の前身が京都日々新聞初代社長というポジションもあって、京都帝大と文献書院は密接にコラボレーションしていたと考えられる。とりあえず、吉澤は『日本近代文学大事典』に立項されているので、それを引いてみる。

 吉沢義則 よしざわよしのり  明治九・八・二三~昭和二九・一一・五(1876~1954)国文学者、歌人。名古屋市中区老松町に木村正則の次男として生れ、のち吉沢家に入籍。明治三十五年、東京帝大国文科卒。大正七年文学博士となり、八年京都帝大教授。明治三十五年、和歌革新を目途して結成された若菜会の一員となったが、その後は国文学者として活躍。昭和五年、京大関係者を集めて雑誌「帚木」を創刊。歌集に『山なみ集』(後略)。

 この吉澤の意向がどれほど反映されているかは不明だが、「全訳王朝文学叢書」はタイトルと見合った菊判函入の雅な佇まい、造本見返し、また口絵にしても、京都風の趣がある。装幀は菊地契月、中村大三郎となっていて、訳者の吉澤を筆頭とする十人と並んでいるので、これらの人々が動員され、「全訳王朝文学叢書」が送り出されていったことになろう。

 さてそこで気になるのはどうような訳文であるかだが、口絵は折り込みカラーの『伊勢物語』の「筒井筒」のシーンなので、それを見てみよう。

 昔、田舎廻りなぞして、儚い生計を立てゝゐる賎しい者に、男の子があつた。
 そして、その隣の家にすむ美しい女の子と、幼い同士、日毎ゝゝ門前の古井の傍で、遊んでゐたが、追々年を取つて、お互いに物心の付いて来るにつけて、表向には、他人行儀に、耻かしそうにしてゐたものゝ、内心に男は、是非あの子を妻にと思ひ込み、女もこの人にと心を寄せて、親達が勧める良縁にも、耳を傾けようとはしなかつた。さて隣の男から、
 つゝ井筒ゐづゝにかけしまろがたけ生ひにけらしなあひ見ざるまに
女の返歌
 くらべこし振分髪も肩過ぎぬ君ならずして誰かあぐべき
とこんなに、言ひ合うてゐるうち、到頭、願ひは叶へられた。

 歌の部分の訳は省略し、前半だけ挙げておいたけれど、この「筒井筒」と同様のシーンが、ゾラの十九世紀後半の第二帝政期の物語に他ならない『ルーゴン家の誕生』(伊藤桂子訳、論創社)に出てくる。そこで『伊勢物語』とゾラの「ルーゴン=マッカール叢書」における神話や伝説の共通性を考えたことがあったけれど、そうした問題に手を出すと、それこそ神話や伝説という井戸にはまってしまうことになりかねないので、断念したことを思い出してしまう。

ルーゴン家の誕生 (ルーゴン・マッカール叢書)

 なお文献書院は昭和十年代に入って廃業したようだ。


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