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出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1131 野口米次郎『芸術殿』と春陽堂文庫出版株式会社

 本探索1126で、昭和六年の国劇向上会による演劇『芸術殿』の創刊、同1127で春陽堂と大日本文庫刊行会の関係にふれてきたこともあって、それらにまつわる一編も書いておこう。

 その雑誌のほうを意識していたのかは不明だが、『芸術殿』という同じタイトルの一冊を入手している。菊判函入、上製三九六ページで、函と表紙は正倉院御物「密陀彩絵箱」の図柄が使われ、その上に判読が困難な赤字の書名を見るけれど、著者名はない。それゆえに函背に示された野口米次郎著『野口米次郎選集』Ⅰとの表記によって、同書が野口の美術論集だとわかる。野口に関しては『近代出版史探索Ⅱ』でその私家版『鳥居清長』と浮世絵論に言及しておいたが、この『芸術殿』には原色口絵の「源氏物語絵巻」、歌麿「文読む女」、北斎「神奈川浦浪の富士」に続いて、モノクロの「法隆寺金堂百済観音」を始めとする雪舟、光悦、光琳、若冲などの絵や屏風が収録され、野口の晩年における日本美術論集成であることを浮かび上がらせている。

f:id:OdaMitsuo:20210209164930j:plain(『芸術殿』)近代出版史探索II

 それらの十一の図版にはすべて「挿絵小註」という丁寧な註が施され、目次の「日本美術の精神」を筆頭に置き、「本阿弥光悦論」からの本論十一編は挿絵とコレスポンダンスする構成で編まれ、まさに『芸術殿』のタイトルにふさわしいイメージが伝わってくる。「自序」は「芸術の祭典始まる」と書き出されて、「今国家が人生の再建設と精神的陶冶を念とするに当つて、私どもが如何に過去の偉大な芸術家が今なほ燦然たる声明に輝いてゐるかを見る時、疑ひもなく美と真理の歴史だけは、永劫に栄えることを知るであらう」と結ばれている。それは昭和十七年七月十日付で記されているけれど、前年の十二月には太平洋戦争が始まり、四月にはアメリカによる初めての東京空襲も起き、『近代出版史探索Ⅴ』952の花森安治のコピーとされる「欲しがりません勝つまでは」のスローガンが流行り出していたのである。

近代出版史探索V

 そうした時代状況下の昭和十七年から『野口米次郎選集』はⅠに続けて、Ⅱの詩集『詩歌殿』、Ⅲの『文芸殿』、Ⅳの『相思殿』、全四巻が刊行されていたことになる。大正時代に第一書房から「野口米次郎ブックレット」として、全三十五巻が出ている。こちらも一冊だけ見つけているが、別のところで書くことにする。ただ「同ブックレット」は「全集」とされているので、この『選集』は野口が晩年に自ら編んだ自選集と見なせるし

f:id:OdaMitsuo:20210214202606j:plain:h120 f:id:OdaMitsuo:20210214203415j:plain:h120(「ブックレット」)

 そのような含みもこめてなのか、『日本近代文学大事典』の野口の立項には『野口米次郎選集』全四巻の春陽堂からの出版が明記されているし、確かに『春陽堂書店発行図書総目録』にしても、そこに掲載を見出せる。だがその版元名は間違いで、正しくは春陽堂文庫出版株式会社、発行者は松浦積である。これらの事情は詳らかにでないにしても、福島鑄郎編著『[新版]戦後雑誌発掘』(洋泉社)所収の昭和十九年の「企業整備後の主要新事業体および吸収統合事業体一覧」を繰ってみると、その一端がわかる。そこには春陽堂(和田利彦)として、春陽堂、春陽堂文庫(株)、大日本文庫刊行会、東亜書房出版部が「教養専門の(文芸・厚生)」を担当分野として、統合されたことを伝えている。

春陽堂書店 発行図書総目録(1879年~1988年) (『春陽堂書店発行図書総目録』)

 それに補足説明を付け加えれば、春陽堂は昭和十年前後から、従来の春陽堂の他に、「大日本文庫」を刊行する大日本文庫刊行会、「春陽堂文庫」を刊行する春陽堂文庫出版株式会社といった具合に、分社化させていった。それはひとえに戦時下における用紙割当配給分をめぐっての分社化のようにも見受けられるし、そのことによって、厚生分野の版元らしき東亜書房出版部もまた吸収統廃合のかたちになったのであろう。先の松浦はその関係者かもしれない。

 しかしそうではあったにしても、発行所と発売所はどうなっていたのか、戦時計画生産と配給を担う日本出版会、及び国策取次会社の日配の意向と企業整備は、統合吸収された出版社の在庫処理にどのような影響を及ぼしたのかは定かでない。それに昭和十八年からは書籍の買切制がスタートしていたし、そのような中で、『芸術殿』の売価三円九十六銭、第二刷三千部は刊行されていたのである。

 つまり昭和十八年以後の文芸書や美術書などの出版メカニズムは同じ戦時下でも、それ以前と異なる生産、流通、販売へと移行していたことになる。そこにはまだ明かされることのない多くの事柄が秘められていたはずであり、この『芸術殿』はそれを体現していたといってもいいかもしれない。


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