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古本夜話1137 米田祐太郎、支那文献刊行会『支那珍籍全集』、伊藤禱一

 こちらは昭和円本時代になってしまうのだが、やはり漢文書に関連すると見なせる『支那珍籍全集』が刊行されている。これは『全集叢書総覧新訂版』によれば、昭和三年に甲子社から四冊出され、その後は続かなかったとされる。

f:id:OdaMitsuo:20210311113529j:plain:h113f:id:OdaMitsuo:20210311113040j:plain:h113(『支那珍籍全集』)全集叢書総覧 (1983年)

 私にしてもその一冊の第二十巻『風流八紘』を入手しているだけだが、それを手掛かりにして、言及を試みる。その編訳者による「序に」に、『風流八紘』とは次のように説明されている。

 支那の正史に現われぬ閨閣の経緯、史外史伝とでも云ふべき、門外不出の秘記異聞で、四百余州四千年を通じての風流皇帝八人を選んでの艶史である。
 新らしい国が起るには、明君があり、英傑がある。明君英傑の裏には、美くしい女が潜む。それと同じで、国が亡ぶにも、明君があり、奸臣がある。そして彼らの後には、やはり傾城傾国と云れる妖婦が居るのだ。
 ここでは多く、亡国の端を啓いた麗妃佳人に配するに、奸寧邪悪な主従の非行、時代の裏を覗ふに足るもの許りを集めた。

 それらは殷の紂王と姐妃の「殷紂王艶史」、周の幽王と褒似の「周幽王艶史」、元の順帝と三十六鴛鴦婦の「元順帝艶史」、明の正徳帝と鳳姐香玉の「明正徳帝艶史」、清の乾隆帝と廓ぞめきの「清乾隆帝艶史」、同じく康熙帝と麗驪の「清康煕帝艶史」、隋の煬帝と楽女千人の「隋煬帝艶史」、唐の玄宗と楊貴妃の「唐明帝艶史」の八編からなる。そしてこれらの三八九ページに加えて、巻末には「隋煬帝艶史」と「楊玉環全伝」=「唐明帝艶史」二編の原文=漢文が一三〇ページにわたって収録され、「艶史」らしからぬ趣を添えている。

 奥付を見ると、翻訳編修、著作者は芝区白金台の米田祐太郎、「賛輯」として宮越健太郎と武田寧信の名前が並び、装幀は木村荘八、発行所は赤坂区青山南町の支那文献刊行会、発行者は牛込区市ヶ谷富久町伊藤禱一である。また「非売品」「会費金二円」との記載はこの『支那珍籍全集』も円本時代の産物だったことを伝えていよう。

 翻訳編修の米田祐太郎の名前は平凡社の『発禁本』(「別冊太陽」)シリーズに見出すことができる。それらに米田は『紅閨記』『支那猥談集』(いずれも支那文献刊行会、昭和二年)の著訳者、川端男勇との『東西媚薬考』(文久社出版部、昭和三年)の共著者として見え、何度も発禁、摘発を重ねた人物とわかる。

発禁本―明治・大正・昭和・平成 (別冊太陽) f:id:OdaMitsuo:20210316115505j:plain:h110(『支那猥談集』)

 これらの事実からすれば、支那文献刊行会は昭和二年から支那文学、文化史関連の出版を始めていて、翌年に『支那珍籍全集』という二十巻以上の円本全集に取りかかったことになろう。ただそれでも定かでないのは『風流八紘』の検印のところに米田の押印を確認できるけれど、この全集自体が彼の企画だったのかである。もちろん米田が支那文学や漢文に通じていたことは明らかだが、発行者としての伊藤禱一のことを考えると、そうとばかりは思えない。それはこれまで多くの奥付表記によって証明してきたように、著作者と発行者のいずれかが発行所の住所と一致すれば、そちらが実質的な経営者ということになる。ところが『支那珍籍全集』は先述したように、三者三様であり、一致していないので、支那文献刊行会の背後には誰か別の人物が控えていたとの推測も可能であろう。

 実はこの伊藤は拙稿「第一書房と『近代劇全集』のパトロン」(『古本屋散策』所収)で指摘しておいたように、第一書房の編集者で、昭和二十三年に第二書房を設立し、やはり第一書房のパトロネスだった片山廣子『野に住みて』を始めとする歌集や詩集を刊行し、後にその息子の伊藤文学によってゲイ雑誌『薔薇族』が創刊されていくのである。この雑誌に関しては伊藤文学『「薔薇族」編集長』(幻冬舎アウトロー文庫)を参照されたい。

古本屋散策 f:id:OdaMitsuo:20210316221728j:plain:h115 『薔薇族』編集長 (幻冬舎アウトロー文庫)

 それらのことはともかく、伊藤禱一は林達夫他編著『第一書房長谷川巳之吉』(日本エディタースクール出版部)に従うならば、昭和四年四月に早稲田大学を中退し、第一書房に入社し、その歴史に残る仕事をすることになったという。昭和四年といえば、『支那珍籍全集』が発刊され、また中絶に終わった翌年のことであり、それは偶然の暗合だろうか。

 この当時、これも前掲書によれば、第一書房は「社屋をはじめ多くのものが抵当にはいり、内部はいわゆる火の車であった」とされる。そのような状況の中で、伊藤と支那文献刊行会は第一書房の別働隊として、発禁の可能性を多分にはらむ『支那珍籍全集』の刊行に踏み切ったのではないだろうか。それでなければ、学生の身で、二十巻を超える全集の製作費の調達は無理だったであろう。円本バブル時代は本探索1132の春陽堂に見たばかりだし、第一書房の長谷川巳之吉にしても、それを夢見なかったはずもない。

 だが良心的文芸書出版社のイメージを汚すことはできないので、その出版を伊藤に託した。それが結果として失敗に終わったとはいえ、その労に報いるために、伊藤を第一書房へと招くことになったとも考えられるし、近代出版史の複雑な関係からいっても、その可能性も大いにありうると思われる。


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