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古本夜話1138 博文館「少年叢書」と興文社「少年叢書漢文学講義」

 漢文書出版の裾野は想像する以上に広く拡がり、それは博文館も例外ではなく、明治二十五年には「支那文学全書」全二十四巻の刊行を始めている。そのことに関して、『博文館五十年史』は書影を示し、「当時国文学の気勢稍ゝ衰へ、漢文学が漸く頭を擡げたので、此書は四書五経より、諸子百家の長い註釈を加へて、漸次出版し、毎月一日発行、一部定価金二十五銭、内藤耻叟、小宮山綏介、石川鴻齋等の諸氏に註釈を請ひ、岸上操氏編輯を担任した」とある。

f:id:OdaMitsuo:20210317201351j:plain:h120(「支那文学全書」)

 岸上は号を質軒とする漢詩人で、内藤や小宮山たちと江戸会を設立し、『江戸会誌』を編集していたが、収支が難しく、その発行が博文館に移ると、岸上もそれに従い、江戸時代研究の権威とされた内藤や小宮山も「支那文学全書」のみならず、博文館の有力な著者となっていったのである。

 「支那文学全書」は未見だけれど、明治三十年の野口寧齋『少年詩話』は入手していて、これは「少年叢書」第二編とあり、「博文館出版年表」を確認すると、十冊刊行されている。野口も当時の著名な漢詩人で、『少年詩話』はB6判並製、一六三ページの小著ながら、少年のための漢詩入門、及び作り方といった内容である。「少年叢書」はこの一冊しか見ていないのだが、先の小宮山の『洋学大家列伝』、やはり漢学者の依田百川(学海)の『英武蒙求』も含まれていることからすれば、著者の多くが漢詩人人脈から召喚されているとも考えられる。そのキャッチコピーを巻末広告から引けば、「少年叢書現はる。人物伝、冒険談、作文書、理科、歴史話、歴史話、紀行類、凡そ少年の良友たるべき珍書は、収めて皆此中に在り」と謳われている。

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 『博文館五十年史』における明治二十年代の漢文学台頭の状況、それと併走する「支那文学全書」や「少年叢書」などの刊行は、明治後半から大正にかけての漢文書出版トレンドの先駆けとなったのかもしれない。

 それを興文社の「少年叢書漢文学講義」に当てはめることができるように思う。「少年叢書」は博文館とシリーズ名が同じだが、こちらは菊判和本仕立ての一冊である。私が拾っているのはその十三編『増訂唐宋八家文講義四』で、大正二年初版、同九年第八版との重版表記から、同書がロングセラーとわかる。

f:id:OdaMitsuo:20210317202905j:plain:h120(『増訂唐宋八家文講義』)

 その内容を「巻之二十五」の章によって示せば、蘚轍子由の著とされ、その一ページを当てた詳細な紹介の「事歴」を見て、次に「清国 沈徳潜確士評点/日本 喰代豹蔵講述」と記され、本文に入り、漢文、字解と講義が続いていくのである。そして巻末には漢文用語辞典と見なしていい、伊藤長胤輯「校正用字格」が付され、おそらくこれが見返しに全二十六冊とある「少年叢書漢文学講義」の共通する編み方だったと考えらえる。

 編輯発行兼印刷者は日本橋馬喰町の興文社/代表者鹿島長次郎とあり、著作権所有も明記されているので、この「叢書」が印税の生じない買切原稿による出版だとわかる。この興文社に関しては『近代出版史探索Ⅲ』421で『日本名著全集』、また前々回にふれたばかりの「藤井誠治郎『回顧五十年』と興文社」(『古本屋散策』所収)において、彼の「中等教科書を始め、漢文書、参考書、予約物等多くの出版があって毎日取物に行った」という証言を引いておいた。そして鹿島長治次郎が興文社の支配人だったが、当時の大事件とされる、興文社がピストル強盗に襲われた際に、未亡人の女主人を救ったことにより、彼女と結ばれ、興文社を株式会社に改組してその代表に就いたことも。

近代出版史探索III 古本屋散策 

 その鹿島がやはり発行者となっている『ENGLISH CONVERSATION-GRAMMAR』も入手している。これは著者を斎藤秀三郎とするもので、明治二十六年初版、二十九年二月訂正再版とある。「PREFACE」には「This book is designed to be used in the primary classes to the Jinjo-Chugakko and schools of similar grade, before the student undertakes the study of regular grammar」と述べられているように、当時の中学生用の英会話文法入門書と考えられよう。斎藤と英語のことは次回に譲るつもりなので、ここでは十六ぺージに及ぶ巻末広告に示された興文社の「中学教科書を始め、漢文書、参考書、予約物の多くの出版」を見てみよう。

f:id:OdaMitsuo:20210318151732j:plain:h115(『ENGLISH CONVERSATION-GRAMMAR』)

 まず「操觚実用文壇宝典」との角書を付す『要字鑑』が挙げられ、そこに示された多くの新聞書評からすれば、これは明治二十年代において漢字辞典として好評だったことを告げておいるようにも思われる。それに続いて「少年叢書漢文学講義」が二ページの見開きで紹介され、まだ二十編までの刊行だが、これらはすでに「二五万余冊ヲ販売」との言がキャッチコピーに見える。また「学生必読漢文学全書」全八冊の二ページ広告もあり、これらは確かに『博文館五十年史』がいうように、「漢文学が漸く頭を擡げ」てきたことの証左となるし、明らかに中学校などでの教科書採用も相次いでいたと判断できよう。この時代に漢文書出版は大いなる利益をもたらしたのである。

 博文館や興文社に続いて、他の出版社にも漢文書出版に参入したことは本探索でずっと見てきたとおりだ。そしてそれは昭和円本時代まで続いていったことになる。


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