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出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1143 金星堂と上方屋『ヴアヰオリン独習』

 前回の『日本精神文化大系』に合わせるように、昭和十年に金星堂から『現代随筆全集』が出版されている。これは『全集叢書総覧新訂版』によれば、全十二巻とある。例によって浜松の時代舎で、その第一巻「学藝篇」を見つけ、購入してきた。B6判函入の一冊で、「現代」が入るタイトルや函の佇まいからすると、戦後の出版のような印象をもたらす。だが奥付には「予約頒価二円」が見えるので、この全集も円本時代の予約出版を継承しているとわかる。

f:id:OdaMitsuo:20210323112500j:plain:h110  全集叢書総覧 (1983年)  f:id:OdaMitsuo:20210330184341j:plain:h110(『現代随筆全集』)

 しかし函に記載された哲学者の桑木巌翼を始めとする十四人の執筆者は金星堂らしくなく、岩波書店の著者たちといったほうがふさわしいし、それは『日本精神文化大系』の監修、編纂者のイメージと共通している。それにくわえて、この「学藝篇」五〇六ページには十四人が三篇から六篇を寄せ、アンソロジーを形成している事実を考えると、彼らのそれぞれの著書などから抽出して編まれたと判断すべきであろう。つまりその編纂者が誰なのかは不明だけれど、そのような出版企画として金星堂に持ちこまれ、それを刊行しなければならない理由もあったはずだ。

 『金星堂の百年』は昭和十年前後の不況と出版事情にふれ、続けている。「それでも、書籍は出し続けなければならない。自転車操業であろうとも、そうしないと金が回っていかないのだ。1935(昭和10年)以降も、叢書や全集が入れ替わり立ち替わり発刊される」ことになると。

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 それにはもうひとつの理由もあった。営業責任者ともいうべき門野虎三が辞めてしまったことだ。『金星堂の百年』も参考文献として、門野の『金星堂のころ』(ワーク図書、昭和四十七年)を挙げているが、そこには拙著『古本探究Ⅱ』も含まれている。それは拙著に、門野の著書に基づく一編「知られざる金星堂」が収録されているからである。ここではそれにより、門野と金星堂のことをたどってみる。

古本探究 2

 金星堂の前身は大正七年に福岡益雄が開いた上方屋という書店と取次で、門野はその上方屋に勤めることになった。門野の証言によれば、取次としての上方屋の商品は、福岡が京都の山中巖松堂出身だったこともあって、八割が大阪や京都の出版物で占められていた。その中には当時のベストセラで、『近代出版史探索Ⅱ』274などの「立川文庫」もあり、常に万を数える在庫を有し、三省堂、東京堂、丸善、大倉書店だけでなく、どこの書店に持っていっても、数百部単位で売れたという。版元は大阪の立川文明堂だったので、福岡の出自と信用もあって、「立川文庫」を始めとする大阪、京都の出版社の売れ行き良好書を常備し、上方屋の取次事業は順調であった。その一方で、福岡は文芸書出版の金星堂を発足させていく。

近代出版史探索II

 しかし福岡は実用書を主とする大阪本=「阪本」、『近代出版史探索』28の浅草的な歌本、譜本=「赤本」の出版も学んでいたので、そうした利益率の高い出版も忘れず、それらは上方屋出版として手がけていた。門野は『金星堂のころ』で、次のように述べている。

近代出版史探索

 主人の福岡は、浅草畑から出て行った人なので、ありとあらゆる方面に顔が利き、出版物の市会でもうまく立ち回っていた。
 文芸書の出版が表看板であったが、やはり儲け仕事のような出版も捨てていなかった。一例をあげると、以前から手掛けていたハーモニカの譜本のような楽譜の出版である。

 『近代出版史探索Ⅱ』266で、春秋社や京文社の音楽書出版にふれ、後者は特価本業界に属し、上方屋と同様に「浅草畑」出身だと推測できたけれど、上方屋の楽譜出版は入手しておらず、そこでは取り上げていなかった。ところが最近になって、それを古書目録で見つけ、入手したのである。

 その一冊は「上方屋楽譜叢書」の『ヴアヰオリン独習』で、大正十年初版、同十二年五刷、著作者はミユジツク倶楽部となっている。A5判並製、四八ページ、目次に当たる「目録」を示せば、「上編」が「ヴアイオリンの持方」に始まる、引き方などの説明、「中編」「下編」は「君が代」や「ラ・マルセーユ」などの各国歌から「よさこい節」や「ぎつちよん節」といった流行歌の楽譜で構成されている。

 奥付裏には「好評嘖々飛ぶやうに売れる」というキャッチコピーの付された、「上方屋の楽譜書」が並び、それらはヴアヰオリンだけでなく、ハモニカ、マンドリン、大正琴などの九冊に及んでいる。いずれも定価は四十銭から六十銭である。門野はこれらの楽譜の売れ行きについて、銀座の山野楽器店で二千部が五掛けの現金取引でさばけ、名古屋の星野書店、大阪の三木佐助商店=開成館、札幌の富貴堂でも百から千部単位で売れたと述べている。またこちらは未見だが、流行歌の歌本は一万部も売れたという。

 これらの上方屋出版部の楽譜や教本の売上で得た資金が金星堂の文芸書出版に注ぎこまれ、それに加えて、上方屋は取次としても機能し、その売上の七割が大阪、京都の出版社、三割を金星堂が占めるようになった。つまり金星堂は大手取次も出荷するが、主だった書店は金星堂の文芸書の場合、仕入れ正味を安くする「入銀」的対応を導入していたのである。そのようにして、金星堂の営業も兼ねた上方屋としてのエリアは大阪、九州、北海道、朝鮮にまで広がり、文芸書版元しての金星堂は門野が証言しているように、博文館や新潮社とも異なる独自の販売促進活動を繰り拡げていたことになろう。

 その立役者の門野が昭和五年に退職してしまったのであるから、取次としての上方屋にしても、金星堂にしても、大きな痛手であったにちがいない。『金星堂の百年』もその門野を忘れるとなく、ねぎらうように、戦前編にその後の門野も描いた「呻吟」という一章において、「住み込み月給45円でみずから進んで休みなく働く門野のおかげで、金星堂は歴史に残る文芸書を出し続けることができたわけだ」とのオマージュを捧げている。ただ残念なのは時期が早かったので、『ヴアヰオリン独習』の発行者がまだ門野の名前になっていなかったことだ。
 
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