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古本夜話1151 岩波書店「独逸文学叢書」、藤代禎輔、ルードヴィヒ『世襲山林監督』

 前回の三笠書房『ホフマン全集』が時期尚早ゆえに二冊で中絶してしまったことにふれた。それより十年ほど前になるけれど、岩波書店でも「独逸文学叢書」が企画され、こちらは十四冊出されたが、やはり後が続かなかったと思われる。

 その3にあたるルードヴィヒ『世襲山林監督』の一冊だけを拾っていて、函入、B6判上製二四五ページの堅牢な造本で、文学書というよりも岩波書店特有の学術書のような趣である。ルードヴィヒの『世襲山林監督』は「悲劇」と銘打たれているように戯曲に他ならない。

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 巻末には京都大学教授、文学博士藤代禎輔監修「独逸文学叢書」として、「この叢書は独逸文学の精髄を出来るだけ正確に我国に移植しようとする企て」で、藤代が「作品の選択や訳者の選定」に考慮し、監修するとの文言が寄せられている。藤代は『日本近代文学大事典』において、藤代素人として立項され、慶応四年、千葉県生まれの独文学者、明治二十四年に東京帝大独文科卒、ベルリン大学留学後、京都帝大教授となり、二十年にわたってドイツ文学を講じ、日本におけるドイツ文学研究の創始者のひとりとされる。夏目漱石が英国留学の際に藤代も同じ船でベルリンに向かったことから、漱石の親しい友人でもあったが、昭和二年に没すとある。

 このような藤代のプロフィルからすれば、岩波書店と漱石の関係から考えても、「独逸文学叢書」は第三次『漱石全集』と重なるように大正十五年に刊行され始めていたし、藤代は岩波書店における京都帝大やドイツ文学の重要なブレインであったと推測される。そのためにそこに示された「訳者の既に定つたもの」だけで、ゲーテ、クライスト、ヘルダーリン、ホフマン、トーマス・マンなどの三十冊近くが挙げられている。それに「今後適当の訳者を得て逐次刊行すべく決定せるもの」として、ノヴァーリス、テイークなどの二十冊余が並び、ゲーテを始めとするドイツ近代文学からノヴァーリスなどのロマン派、トーマス・マンたちの現代文学にまで及ぶ大がかりな「独逸文学叢書」が目論まれていたとわかる。

 そのことをうかがわせるように、『岩波書店七十年』にも大正十五年のところに「1・10《独逸文学叢書》刊行開始—監修藤代禎輔(京都大学教授)、(1928年2月25日までに14冊刊行)」とあり、当初の意気ごみを伝えているのだが、どうして十四冊で終わってしまったのだろうか。そのことにふれる前に、『岩波書店七十年』を繰って、それらの十四冊だけでもラインナップしてみる。

1 グリルバルツェ 『金羊皮』 相良守峯訳
2 レッシング 『ミンナ・フォン・バルンヘルム』 野村行一訳
3 ルードヴィヒ 『世襲山林監督』 関泰祐訳
4 ゲーテ 『ヰ¨ルヘルム・マイスター』上 林久男訳
5   〃     〃          下  〃
6 シルレル 『オルレアン乙女』 佐藤通次訳
7 グリルバルツェル 『ザッフォー』 伊藤武雄訳
8 クライスト 『ペンテジレーア』 吹田順助訳
9 メーリケ 『プラークの旅路の持つアルト』 石川錬次訳
10 シルレル 『ドン・カルロス』 佐藤通次訳
11 レーナウ 『レーナウ詩集』 桜井政隆訳
12 シルレル 『シルレル小説集』 奥津彦重訳
13 ヘッペル 『ヘローデスとマリアムネ』 上村清延訳
14 シルレル 『マリア・スチュアルト』 相良守峯訳

f:id:OdaMitsuo:20210508115946j:plain:h120(『シルレル小説集』)

 3が「悲劇」であることは前述したが、実は4、5、9、11、12を除いて、他はやはりすべて戯曲であり、「独逸文学叢書」は「独逸戯曲叢書」の色彩が強いといっていい。『近代出版史探索』205で、大正時代における島村抱月の芸術座から土方与志の築地小劇場までの劇団の設立と演劇の隆盛をたどっているので、「独逸戯曲叢書」の色彩はトレンドだったと考えられるし、そのことで戯曲が優先的に出されたとも推測できる。

 しかし問題なのはすでに昭和円本時代に入っていたことで、昭和二年には拙稿「第一書房『近代劇全集』のパトロン」(『古本屋散策』所収)の同全集、及び『近代出版史探索Ⅲ』550の近代社『世界戯曲全集』が相次いで刊行され始めていたのである。それに対して、「独逸文学叢書」は一円五十銭から三円八十銭と高定価であり定価競争には敗れるしかなかった。それに監修者の藤代が昭和二年に亡くなったことも加わり、中絶してしまったと思われる。

f:id:OdaMitsuo:20190208105436p:plain:h121(『近代劇全集』)(『世界戯曲全集』)

 それならば、小説を優先した「独逸文学叢書」であったと仮定した場合、どうなのかということになるのだが、そちらにしても『近代出版史探索Ⅴ』827の新潮社『世界文学全集』が出されていくので、同じく競合することになったであろう。ただ岩波書店の場合、それらの円本全集に包囲されたことにより、やはり昭和二年に岩波文庫を創刊に至る。

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 その発刊に際しての「読書子に寄す」はいっている。「近時大量生産予約出版の流行を見る」。それに対し、岩波文庫は読者が「自己の欲する書物を各個に自由に選択」でき、「携帯に便にして定価の低きを最主とする」と。実際に4や5はただちに文庫化されているし、翻訳が進んでいた作品も岩波文庫による刊行に差し替えられていったと見なせよう。

 しかしそこには昭和円本時代の到来の渦中にあって、日本文学全集も世界文学全集も、また戯曲全集や思想全集も他社に先行されてしまったことで、文庫の創刊を選択せざるをえなかった岩波書店の出版事情を透視できよう。


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