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古本夜話1152 岩波書店『ストリントベルク全集』

 岩波書店としては関東大震災直後の企画だが、前回の「独逸文学叢書」と併走するように刊行され、同じく岩波文庫へと移ることで中絶してしまったのは『ストリントベルク全集』だったと思われる。

f:id:OdaMitsuo:20210429155226j:plain:h120 f:id:OdaMitsuo:20210507173736j:plain:h120(「独逸文学叢書」、『世襲山林監督』)

 その一冊である『大海のほとり』を入手している。函入、B6判上製で、これもまた「独逸文学叢書」と共通する趣が感じられ、文学書というよりも、岩波書店的な社会科学書のイメージが強い。ただこちらは未見だし、『新潮社四十年』で書影しか目にしていないけれど、同時代の大正十二年に刊行された新潮社の『ストリンドベルク全集』全九巻も、似たような造本と装幀であり、ドイツ文学とのふれこみで、当時のストリントベルクの原像と作品の位相を表象しているとも考えられる。岩波書店の『大海のほとり』の巻末広告には二ページに及ぶ『ストリントベルク全集』の内容紹介なども掲載され、次のように始まっているので、それを示す。

f:id:OdaMitsuo:20210512105601j:plain:h115(『新潮社四十年』)f:id:OdaMitsuo:20210512112128j:plain:h120(新潮社、『ストリンドベルク全集』)

 近代欧羅巴の作家のいで最も強く、我々に驚嘆の念を起させるのはストリントベルクである。彼は十九世紀後半から二十粋初めへかけての欧羅巴文化の変転を徹底的に体験した。その深刻さの故に、彼の通つた道は比類なく顕著な普遍人間的刻印を打たれてゐる。加ふるに彼の表現の技巧は簡潔と彫刻的とに於て殆んど模範的である。これらの特徴は我我日本人が熱心に学ぶべき丁度その点である。ストリントベルクを難解とするのは浅薄と冗漫との愛好を告白するに外ならない。

 そしてこの全集は「原著者の多面な教養学識、怪物の如き頭脳の鋭さ、暗示多き簡潔な表現の秘訣などを充分に理解し得るだけの深い教養と芸術理解の力が翻訳者には必須で、それは「翻訳者の顔触れ」によって了解されるであろうと謳われている。そこまでいわれているのだから、『岩波書店七十年』を確認しつつ、全十巻のタイトルと訳者名を挙げておくべきだろう。

1『ダマスクスへ』 茅野蕭々訳
2『或魂の発展』  和辻哲郎訳
3『痴人の告白』  和辻哲郎、林達夫訳
4『下女の子』   小宮豊隆訳
5『自然主義的戯曲』 小宮豊隆、茅野蕭々訳
6『島の農民』   草間平作訳
7『結婚』     亀尾英四郎訳
8『燕曲集』    小宮豊隆、大庭米次郎訳
9『大海のほとり』 斎藤昫訳
10『黒旗』    大庭米次郎訳

f:id:OdaMitsuo:20210509223951j:plain:h115(『下女の子』)

 これらの他にも、阿部次郎や安倍能成も含めて、七作品(集)が翻訳予定とされているのだが、現実的にはこの十巻で完結したことになる。それら以外の『父』『稲妻』『幽霊曲』(いずれも小宮豊隆訳)、『令嬢ユリェ』(茅野蕭々訳)は昭和2年に岩波文庫に収録の運びになっている。

f:id:OdaMitsuo:20210512165739j:plain:h125(『幽霊曲』)f:id:OdaMitsuo:20210512165241j:plain:h120(『令嬢ユリェ』)

 ストリントベルクの訳者として、本探索1022の茅野蕭々は当然としても、2などの和辻哲郎、3の林達夫、9の斎藤昫は意外であり、すでに林は『近代出版史探索Ⅴ』810、斎藤は『近代出版史探索Ⅳ』708で既述していることにもよっている。だがそれらはともかく、岩波文庫も含めて、小宮豊隆が最も多く翻訳を手がけている事実からすれば、岩波茂雄と小宮の深い関係をうかがうことができる。

 小宮は東京帝大独文科在学中に夏目漱石の木曜会に参加し、漱石の口添えで慶応大学でドイツ文学を講じ、そのかたわらで漱石主宰の「朝日文芸欄」を手伝った。だが大正五年に漱石は世を去り、小宮は翌年から『漱石全集』編集に没頭し、八年に全十四巻を完結させ、十四年には東北帝大でドイツ文学講座を担当することになる。

 そのような小宮のドイツ文学専攻と『漱石全集』編集による岩波書店との関係から、『ストリントベルク全集』の企画も生じたと見なしてかまわないだろう。それは前回の「独逸文学叢書」が「深遠な思想と徹底的精神に培われてゐる独逸文学」を「監修は斯界の権威、訳者は新進の精英、作品は悉く代表的価値あるものを網羅」し、「座右に具ふべき」もので、漱石の友人の藤代禎輔による企画監修であったように、いずれも漱石と岩波書店の関係の落とし子として出版された。

 しかし『ストリントベルク全集』「独逸文学叢書」のキャッチコピーに表出している岩波書店版の高踏なイメージは、新潮社の『世界文学全集』における広範な西洋文学のバラエティ、一大ブームとしての円本、一円という廉価などに対抗できるはずもなかったと思われる。それに前述したように、同じく新潮社の『ストリンドベルク全集』が先行していたのであり、その競合も岩波書店の『ストリントベルク全集』の足枷になったにちがいない。かくして「独逸文学叢書」『ストリントベルク全集』も実質的には中絶し、それらに収録されるはずだった作品は岩波文庫へと移行していくのである。

f:id:OdaMitsuo:20200717104139j:plain:h115(『世界文学全集』)

 それを肝に銘じてなのか、昭和戦前において外国文学は『トルストイ全集』だけが試みられたが、「外国文学叢書」は再び刊行されていない。

f:id:OdaMitsuo:20210513153850j:plain:h115


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