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古本夜話1161 正宗白鳥『人を殺したが・・・』と井伏鱒二

 ハイネ『ハルツの旅』の巻末広告「聚芳閣の長篇小説」という一ページを見ていて、紅野敏郎『大正期の文芸叢書』における「新作家叢書」に連想が及んだので、そのことを書いてみよう。

大正期の文芸叢書
 
 まずそのうちの九作を挙げてみる。

1 中西伊之助 『一人生記録』
2 近藤栄一 『沙本姫』
3 前田河広一郎 『快楽師の群』
4 加富貫一 『展開物語』
5 新井紀一 『落葉の如く』
6 佐々木味津三 『二人の異端者』
7 下秋千秋 『刑罰』
8 倉田湖 『放浪』
9 北小路功光 『童子照麿』

 紅野は先の同書で、「新作家叢書」は1、3、4に加えて、十一谷義三郎『生きる』、新井紀一『悪夢』、佐々木味津三『二人の異端者』の六冊が予定されていたが、最初の三冊だけで終わってしまったと述べている。そして中西の『一人生記録』、近藤の『沙本姫』、前田河の『快楽師の群』が大正十三年五月五日に同時刊行されたけれど、この「叢書」が書き下ろしであったので、他の三冊はそれに間に合わず、「叢書」そのものも打ち切りになったとされる。

 しかし前掲のリストはちょうど一年後の大正十四年五月五日に刊行された『ハルツの旅』の巻末広告から抽出したものである。紅野によれば、同十三年九月に6の佐々木の『二人の異端者』は単独の本として刊行されたこともあり、「これも書きおろしの単行本である故、『新作家叢書』の延長線上の別のかたちと見てもよかろう」と補足している。

 さてこれからは私の推測だが、佐々木の『二人の異端者』と同じく、4の加宮の『屏風物語』、5の新井の『落葉の如く』|、7の下村の『刑罰』、8の倉田の『放浪』、9の北小路の『童子照麿』も、「『新作家叢書』の延長線上の別のかたち」と見なしてかまわないのではないだろうか。いずれも先の三冊から一年以内の出版だし、新井の『落葉の如く』は『悪夢』の改題とも考えられる。それに定価設定も7の下村の『刑罰』までは同一の一円四十銭で、菊半截判より少し大きい角背の函入のフォーマットはそのまま定価と同様に引き継がれていたのではないだろうか。

 しかし私のこの推論は弱点がある。それは本探索としては例外的にイレギュラーなのだけれど、これらの九冊が未見で、入手に至っていないからだ。その代わりに当時編集者として聚芳閣に勤めていた井伏鱒二の回想を紹介しておきたい。実はこれも書影だけで未見だが、正宗白鳥は聚芳閣から『人を殺したが・・・』『正宗白鳥全集』第三巻所収、新潮社)を上梓していた。それらに関して井伏の「正宗さんのこと」(『井伏鱒二全集』第十二巻所収、筑摩書房)を引く。これは正宗にしても足立にしても、珍しいシーンなので、省略せずに挙げてみる。

f:id:OdaMitsuo:20210614155331j:plain:h110 f:id:OdaMitsuo:20210615102737j:plain:h110 井伏鱒二全集〈第12巻〉山峡風物誌・白毛

 私は関東大震災の翌々年、世田谷の聚芳閣という出版所に勤めてゐた。そのころこの本屋で、「サンデー毎日」に連載された正宗さんの長篇「人を殺したが」を石井鶴三氏の挿絵で出版した。その校正が出はじめたころ正宗さんから電話があて、いま角筈まで来てゐるから訪ねて行くとの知らせがあつた。社長は周章てて着物を着換へ、壁お召の羽織りを着て電車通りへ出迎へにゐつた。
 社長としては珍しいことだと私は思つた。不断、この社長は作家や著者が来ても、ふところ手のまま編輯室で応待して巻舌で元気よく話をする人である。よほど正宗さんに傾倒してゐるものと見えた。自然、編輯室のみんなも色めき立つて来店を待ち受けた。やがて社長は正宗さんを案内して来ると、奥の茶席に通すため編輯室を素通りした。私たちは立ちあがつて正宗さんにお辞儀したが、相手は黒い折鞄を肩に擔ぐやうな恰好で持つたまま、すつとドアの内側に入つて行つた。 
 「ああ、小学生が学校から帰つたときの恰好そつくりだ」と、松本清太郎という編輯部員が云つた。この松本君は島崎藤村氏に師事して、もうそのころには自著の小説集を一冊か二冊出してゐた。世間の苦労もした人物である。(後略)

 さらに井伏は「『人を殺したが・・・』は売行きがよくて、聚芳閣としては珍しく再版を出した」とも付け加えている。

 井伏の眼差しのもとに、大正後半における正宗の出版業界でのポジション、足立という出版社社長の、他の作家と異なる正宗への対応、それを見守る小出版社の編輯者たちとその視線などがリアルに描き出されている。まさに聚芳閣という小出版社の内情が再現されているかのようだ。それに井伏の翻訳のズウデルマン『父の罪』ではないけれど、松本も『祇園島原』を刊行していて、井伏はそれをさしているのだろう。

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 このような足立という経営者、井伏や松本のような翻訳者や著者も兼ねる編輯者というシフトによって、関東大震災後に「新作家叢書」や『人を殺したが・・・』だけでなく、『ハルツの旅』の巻末広告に示された多くの文芸書が送り出されていったことを了解するのである。


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