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古本夜話1169 勝本清一郎と女たち

 浜松の時代舎で、勝本清一郎の『前衛の文学』を入手してきた。これは昭和五年に新潮社ら刊行されたもので、『日本近代文学大事典』の勝本の立項において、書影と解題も見える。タイトルと並んで、装幀が村山知義であることはこの一冊の時代的位相を物語っていよう。

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 明治三十二年生まれの勝本は幼稚舎から大学まで慶応で学び、美術史を専攻していたが、昭和に入って蔵原惟人を通じて左翼運動に接近し、文芸評論家として形式主義文学論争、芸術価値論争に加わり、『新潮』などにそれらの論考を発表する。この勝本のプロレタリア文学系の評論集が『前衛の文学』に他ならない。その一方で、勝本は昭和四年にプロレタリア作家同盟に加入し、代表としてベルリンに赴く。翌年にはソビエトに向かい、藤森成吉とともにハリコフ会議に出席し、昭和六年にはやはり新潮社から『赤色戦線を行く』を刊行し、七年から八年にかけては再びベルリンとモスクワに滞在している。

 『赤色戦線を行く』のほうは未見だけれど、簡略に昭和に入っての勝本の「赤色戦線」をトレースしてみた。だがそれらはひとまずおき、ここでは視点を変え、彼を本探索1164の高浜虚子と『ホトトギス』、同1163の永井荷風、籾山書店、『三田文学』、同1161の聚芳閣と足立欽一に寄り添わせてみる。勝本は大正六年に虚子の弟子になり、写生文を学び、『ホトトギス』に作品を発表し、大学では芸術史を専攻する。関東大震災後は昭和三年まで、『近代出版史探索Ⅲ』553の水上瀧太郎の麹町の邸内に住み、大正十四年には『三田文学』の編集委員に就く。

f:id:OdaMitsuo:20210707115705j:plain:h120(『赤色戦線を行く 』)

 永井荷風は、籾山書店の「胡蝶本」と『三田文学』時代といってもいいだろうが、大正二年に見合い結婚する。しかし荷風は新橋の芸妓である巴家八重次を外妾としていたことで、翌年に離婚し、八重次を正妻として迎えている。だが大正四年に彼女は家出し、離婚に至り、以後は新舞踏運動を興し、藤蔭静枝を名乗り、藤蔭会を組織している。荷風と離婚後に彼女の愛人となったのが勝本だった。

 勝本の愛人問題は昭和の「赤色戦線」時代になっても続いていく。『日本近代文学大事典』の『三田文学』の解題のところに、「しかし勝本は昭和二年一二月徳田秋声の愛人山田順子と突然姿を隠したので急遽平松幹夫が編集を担当した」とある。これも文芸誌の解題としては異例と思われるが、この第三次『三田文学』は水上瀧太郎を中心としていたので、必然的に水上の近傍にいた勝本が編集を担うことになっていたのだろう。

 山田順子に関しては拙稿「聚英閣と聚芳閣」「足立欽一と山田順子」(いずれも『古本屋散策』所収)、及び『近代出版史探索Ⅱ』264「山田順子『女弟子』と徳田秋声」において、繰り返し既述しているが、もう一度ふれてみる。山田は徳田秋声の愛人で、足立の聚芳閣から自伝小説『流るるままに』を刊行し、足立や竹久夢二とも関係を結んでいたのである。徳田の『仮装人物』はそれらの人物たちをモデルとする小説で、稲村が徳田、葉子が順子、山路が竹久、一色が足立、清川が勝本、雪枝が藤蔭静枝とされる。

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 これらの詳細には再び言及しないけれど、荷風と秋声という近代文学の大家と見なしていい二人の妻と愛人や関係した文芸評論家は勝本だけだったと思われる。彼女たちから見ても、勝本のブルジョワの息子、純粋の都会育ちの慶応ボーイ、左翼にして文芸評論家といったモードは魅力的だったにちがいない。

 その勝本の魅力はドイツ女性に対しても発揮されたようで、昭和八年にドーラ=ミンドラと結婚し、帰国している。それがきっかけになったようにして、彼は資料収集に基づく近代文学の実証的研究に向かい、十年には日本ペンクラブの創立に参加し、常任理事となり、十五年には中央公論社出版文化研究室主任として、明治期の雑誌の収集と研究に従事した。そして十六年には中央公論社版『尾崎紅葉全集』の編集に参加している。

f:id:OdaMitsuo:20210707222449j:plain:h115(『尾崎紅葉全集』)

 この『尾崎紅葉全集』は『近代出版史探索Ⅴ』835でも取り上げているが、『中央公論社の八十年』所収の「年表・中央公論社の八十年」の昭和十六年七月のところに「『尾崎紅葉全集』(全一〇巻)刊行開始。(不要不急、戦時下はなはだしく好ましくない刊行物として、昭和十八年一月、三巻分発行したのみで、中途続刊中止の勧告をうけて挫折)」とあるように中絶してしまった。私が拾っているのは第九巻の「十千萬堂目録」を始めとする日記、病状記、見舞人署名帖、塩原紀行などの旅行記で、柳田泉編纂校訂となっているけれども、「勝本清一郎氏の御助力を得たことが特に多い」と記しているので、そのうちのかなりの部分は勝本の発見と提供によっていると思われる。

 ちなみに残念ながら未刊に終わってしまったが、勝本は最も多い第一巻から第三巻までを担当し、紅葉の初期中期作品集はすべて勝本編纂校訂とされていた。その事実からすれば、彼の紅葉作品の収集は柳田だけでなく、同じ編纂者の本間久雄や塩田良平を上回るものだったとわかる。勝本は『我楽多文庫』の第一期筆写回覧本も所持していたと伝えられている。

 戦後になって、勝本が岩波書店で『透谷全集』を編纂し、『座談会明治文学史』『座談会大正文学史』を刊行するに至ったことは、そうした資料探索の成果と見なすことができよう。またもうひとつ問えば、ドイツ女性と結婚したこととそのような近代文学研究者への道はリンクしているのだろうか。

f:id:OdaMitsuo:20210707223832j:plain:h110 大正文学史―座談会


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