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古本夜話1170 新潮社『ツルゲエネフ全集』と生田春月訳『初恋』

 新潮社はやはり大正七年から『ツルゲエネフ全集』全十巻を刊行している。それには前史があって、佐藤義亮は「出版おもひ出話」(『新潮社四十年」所収』で、明治四十年頃に外国文学の翻訳出版をツルゲーネフから始めようと思ったと述べ、次のように続けている。

f:id:OdaMitsuo:20210512105601j:plain:h110(『新潮社四十年』)

 なぜそんな考へを起したかといふに、長谷川二葉亭が『猟人日記』の一節を訳した『あひゞき』(二十一年の国民之友発表)を読んでひどく感心したのに第一の原因がある。当時の文学青年で、あの訳に、なにがしかの感銘をうけなかつて者は恐らく絶無であつたらう。その次は田山花袋だ。当時の田山さんは酒を飲むと、きつと、と云つてもよい位ゐにツルゲーネフの話をされた。ツルゲーネフの書く恋はいゝね。といつて、その一節の梗概を、いかにも感傷的の調子で語られたりした。私もひどくそれに動かされて、翻訳出版はツルゲーネフから始めようと決めたのである。

 私も拙著『書店の近代』において、田山花袋の『東京の三十年』(岩波文庫)を引き、明治時代の丸善の洋書売場で買い求めたツルゲーネフの『父と子』を恋人のように抱いて、丸の内の宮城近くの道を歩いていく青年のことを取り上げている。そのために明治四十年代から大正時代にかけて、ツルゲーネフの翻訳は多くに及び、重訳であったにしても、新潮社は明治四十二年に相馬御風訳『父と子』、翌年には『貴族の巣』、大正二年には大貫晶川訳『煙』と続いていったのである。

東京の三十年 (岩波文庫)

 ちなみに佐藤の言によれば、『父と子』は「増版約五回。翻訳物は売れない、といふ出版界共通の迷信を打破するだけの売行だつた」とされる。また大貫は岡本かの子の実兄で、谷崎潤一郎の親友として、ともに第二次『新思潮』を創刊しているが、大正元年に急逝し、その後に『煙』「近代名著文庫」が刊行されたことになる。このような新潮社のツルゲーネフ翻訳出版前史があり、大正七年からの『ツルゲエネフ全集』の企画へとリンクしていったのであろう。 
 そのリストを示す。

1『猟人日記』 生田長江訳
2『ルーヂン』 田中純訳
3『初恋』 生田春月訳
4『その前夜』 田中純訳
5『煙』 大貫晶川訳
6『父と子』 谷崎精二訳
7『プーニンとパブロン』 布施延雄訳
8『処女地』 田中純訳
9『春の波』 生田春月)
10『貴族の巣』 布施延雄訳

f:id:OdaMitsuo:20210714101729j:plain:h110 f:id:OdaMitsuo:20210714101535j:plain:h110(『猟人日記』)f:id:OdaMitsuo:20210714103821j:plain:h110(『ルーヂン』)

 10の『貴族の巣』が相馬御風訳ではなく、布施延雄訳にあらためられたのは定かではないけれど、コンスタンス・ガーネットによるツルゲーネフの英訳の日本への流入に起因していると推測される。彼女の夫のエドワード・ガーネットはツルゲーネフ研究者として著名であり、ゾラの日本への浸透がイギリスのヴィセットリーの英訳によっていたように、大正時代のツルゲーネフも、ガーネット夫人の英訳を通じて翻訳の進められたと考えられる。

 新潮社版『ツルゲネエフ全集』のうちで、入手しているのは1と3である。3の『初恋』は本探索1049などの生田春月訳だが、1の『猟人日記』にしても、長江との関係からすれば、春月訳だとも考えられる。前者の「序」に独訳とともに「英語訳全集版」を参照とあるので、それはガーネット夫人訳をさしているのだろう。他の翻訳者たちも英語をプロパーにしていることからすれば、やはり翻訳は英語からの重訳だったと見なせるし、ロシア文学にしてもフランス文学にしても、本格的な原語からの翻訳は、大正後半から昭和を待たなければならなかったのである。だが手元にある『猟人日記』は大正七年初版、同十年十一版、『初恋』は同じく十三年廿六版で、相馬訳『父と子』よりも版を重ねていて、大正時代におけるツルゲーネフ人気を伝えていよう。ここでは『猟人日記』ではなく、『初恋』にふれてみたい。

初恋 (国立図書館コレクション)『初恋』Kindle版)

 この作品はツルゲーネフの父母をモデルとして構成され、彼自身の体験が投影されているのであろう。髪の灰色がかった四十歳ほどの男が、二十年以上前の初恋について語り始める。それは彼が十六歳の時、モスクワの両親の家に住んでいたが、別荘もあり、五月にそこに移っていた。その庭で、彼は本を手にして散歩し、詩を朗読し、血潮はたぎっていたが、胸は哀愁に充ちていた。空想は止むことなくわき上がり、自然の美しさは青年の生命の喜ばしき感情をかり立てるようだった。馬に乗り、騎士をもって任じ、自然の光と空色を多感な心に吸いこんでいたのである。その時の心境が語られている。

 思ひ出してみると、当時は女の姿や、女の愛の概念は、殆んど一度もはつきりした形をして、私の胸に浮かんで来なかつた。けれども私の考へたすべてのものの中に、私の感じたすべてのものの中に、半ば意識されない、もの恥かしいやうな、ある新しいものの、ある名状しがたく甘いものの、ある女性的なものへの予感が隠されてゐた・・・・・・

 その予感とコレスポンダンスするように、別荘にザシエキン公爵夫人と娘のジナイイダが現われる。ジナイイダは二十二歳で、一瞬のうちに、「私の目はこのすらとした姿、この頸、この美しい両手、この軽くほどけて白い手巾の下からこぼれ出てゐるブロンドの髪、この半ば閉ぢられた大きな目、この睫毛、このやさしい頬に釘付けにされてゐた・・・・・・」のである。

 しかし公爵夫人は貧しく、娘のほうは五人の青年崇拝者たちに取り囲まれていた。果たしてこれから彼の「初恋」はどのような展開をたどるのであろうか。この続きは実際に読んでほしいと思う。


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