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古本夜話1173 ドーデ、萩原彌彦訳『巴里の三十年』

 前回、トルストイやドステエーフスキーの日記や書簡を収録した新潮社の「人と芸術叢書」にふれたが、その第四編がドオデエの『巴里の三十年』であることを知った。この訳者が『支那思想のフランス西漸』(第一書房、昭和八年)の後藤末雄だと承知していたけれど、このシリーズの一冊と認識していなかった。それゆえにそこに寄せられていた次のような紹介も初めて目にするものであった。

 仏蘭西の文豪ドオデエが晩年自ら筆をとりて、如何にして文学に志せしか、如何にして文壇の人となりしか、如何にして其の三十年の文壇生活を送れるかを述べたるもの。これを文豪生ひ立ちの記と見るも可、文豪立志篇と見るも亦可也。其文壇への憧憬と初陣、その作家としての悦楽と苦み、その交遊、その日常生活の巨細を、美くしき筆に描ける所、文豪の楽屋観として興味極めて豊か也。

 この『巴里の三十年』を範として、田山花袋が『東京の三十年』(博文館、大正六年)を書いているし、同書によってフローベルやゴンクールを知ったと述べているので、この後藤訳を読んでいたと思いこんでいた。だが実際の出版は逆で、花袋の『東京の三十年』の上梓に刺激され、翻訳が進められたとも考えられる。しかし『巴里の三十年』は長きにわたって探しているけれども、稀覯本ゆえなのか一度も出会っていない。それは『東京の三十年』の博文館版も同様である。

 東京の三十年 (岩波文庫) (岩波文庫版)

 その代わりといっていいのか、『巴里の三十年』は戦後版を古書目録で見つけ、入手している。そのドーデ『巴里の三十年』は昭和二十四年二月初版、十二月第二版で、訳者を萩原彌彦、発行者を米山謙治として、創藝社から刊行されている。創藝社は東京の銀座に本社があり、京都支社も設けていることからすると、それなりの資金、もしくはスポンサーを得て、戦後簇生した出版社のひとつだと思われる。
 
f:id:OdaMitsuo:20210719111237j:plain:h120 (創藝社版)

 後藤訳『巴里の三十年』はずっと絶版のままであり、戦後を迎えて、まさに三十年ぶりに萩原訳で新しい読者に出会えるはずだった。それは萩原にしても創藝社にしても、同じ思いだったであろう。萩原はその「訳者後記」において、新潮社版は全訳ではなく、十六篇のうちの十篇を収録した抄訳だと最初に断わっている。萩原は昭和十年頃に『巴里の三十年』の翻訳を思い立ち、白水社の『ふらんす』に昭和十一年から十八年にかけて、断続的部分的に連載したものをベースとして全訳したとある。恩師として渡辺一夫などの名前が挙げられていることからすれば、萩原はドーデ研究者で、東京帝大仏文科出身だと推測される。したがって敗戦もはさんで長い時をかけ、満を持した翻訳であったはずだ。それは『巴里の三十年』と並んで、『ドオデェ短篇選』(丹頂書房、昭和二十三年)を翻訳していることにもうかがわれる。

 しかし戦後の出版業界の流通や販売の混乱の中にあっても、戦時下で三百社にまで減少していた出版社は増える一方で、昭和二十一年には二千五百社近くを数え、二十三年には返品洪水で千四、五百社が倒産、脱落したと伝えられる。この渦中に創藝社と『巴里の三十年』、丹頂書房も巻きこまれ、不幸な運命をたどったのではないだろうか。それは訳者の萩原も同様だったのかもしれないし、そうした事情がこれまで創藝社版『巴里の三十年』に出会えなかった理由のように思われる。

 だがこの萩原訳を読んだだけでも、花袋が英訳で読んだ際の感慨を想像できるし、それは次のように始まっている。

 なんといふ旅行だつたらう! 三十年経つた今日、そのことを思ひだすだけでも、私はまだ脚が氷の足枷で締めつけられるやうに感じ、胃の痙攣に襲はれる。二日間、三等の客車内で、夏の薄着のまゝ、寒さに慄えてゐたのだ! 私は十八歳だつた。

 ドーデは南仏から「文学に精進するために」巴里へとやってきた。そしてようやく着いたのだ。

 鋳鉄板の上を音をたてゝ走る車輛の響、燈光に輝く広大な円天井、ばたゞゝと扉の開かれる音、走る手荷物運搬車、落ちつかない、忙しさうな人の群れを、税関の役人達、——巴里!

 花袋の『東京の三十年』のほうは、「東京は泥濘の都会、土蔵造の家並の都会、参議の箱馬車の都会、橋の袂に露店の多く出る都会であつた」と花袋もまた明治二十年代の東京において、文学修業に励んでいくわけだが、そちらは拙稿「書店の小僧としての田山花袋」(『書店の近代』所収)を参照されたい。

書店の近代―本が輝いていた時代 (平凡社新書)

 ドーデの巴里での文学への精進も具体的に語られていくけれど、やはり興味深いのは前回の「近代十八文豪」との交流で、「ツルゲーネフ」と題する最終章において、フローベルの家でのツルゲーネフ、ゾラ、ゴンクールたちによる、七時から始まって二時になっても終わらない晩餐会のことが回想されている。そこにはいつも彼らの新刊であるフローベル『聖アントワンヌの誘惑』、ゴンクール『令嬢エリザ』、ゾラ『ムーレ司祭』、ツルゲーネフ『処女地』、ドーデ『ジャック』などが置かれ、胸襟を開いた文学談議が交わされていたのである。これは一八七〇年代半ばのことだった。

 だがフローベルは一八八〇年、ツルゲーネフは八三年に亡くなり、彼らの晩餐会は再び始められたけれど、ドーデ、ゾラ、ゴンクールの三人でしかなかったのである。そしてこの「ツルゲーネフ」の校正刷を修正している間に、彼の『思ひ出』が届いたことを記し、『巴里の三十年』を閉じている。


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