ゾラの「ルーゴン=マッカール叢書」の翻訳は大正時代後半が最盛期で、国立国会図書館編『明治・大正・昭和翻訳文学目録』(風間書房)を確認してみると、次のようにリストアップできる。類似した試みを『近代出版史探索』193で行なっているけれど、私は論創社の「ルーゴン=マッカール叢書」の編集、翻訳者でもあるので、もう一度視点を変え、言及してみたい。
1 本間久訳 | 『女優ナナ』 | (東雲堂、大正二年) |
2 飯田旗軒訳 | 『金』 | (博文館、同五年) |
3 松本泰訳 | 『アベ・ムウレの罪』 | (天佑社、同十年) |
4 水上斎訳 | 『酒場』 | (天佑社、同) |
5 三上於菟吉訳 | 『貴女の楽園』 | (天佑社、同十一年) |
6 井上勇訳 | 『制作』 | (聚英閣、同十一年) |
7 宇高伸一訳 | 『ナナ』 | (新潮社、同十一年) |
8 三上於菟吉訳 | 『歓楽』 | (元泉社、同十二年) |
9 中島孤島訳 | 『生の悦び』 | (早稲田大学出版部、同十二年) |
10 木蘇穀訳 | 『血縁』 | (大鐙閣、同十二年) |
11 木村幹訳 | 『居酒屋』 | (新潮社、同十二年) |
12 関口鎮雄訳 | 『芽の出る頃』 | (金星堂、同十二年) |
13 堺利彦訳 | 『ジェルミナール』 | (アルス、同十二年) |
14 井上勇訳 | 『ナナ』 | (世界文豪代表作全集刊行会,、同十五年) |
(『生の悦び』)
これらの2の飯田と『金』は『近代出版史探索』195、13の井上と世界文豪代表作全集刊行会は同196、197、3の『貴女の楽園』は『近代出版史探索Ⅲ』402で既述している。 この他にも、大島匡助訳『怨霊』(金星堂、大正十年)、渡辺俊夫訳『陥落』(日本書院、同十二人)、椎名其二訳『野へ』(ヱルノス、同十五年)、井上勇訳『呪われたる抱擁』(聚英閣、同十年)なども挙げられているけれど、それらを入手しておらず、「ルーゴン=マッカール叢書」の作品なのか、原文タイトルも不明なので、ここではリストに加えなかった。また秋庭俊彦訳『肉塊』(三徳社、同十二年)は『パリの胃袋』だが、そこに見出せず、岩野泡鳴訳『女優ナナ』(『泡鳴全集』第十三巻所収、国民図書、同十一年)は六〇ページほどの抄訳であり、省略した。
「ルーゴン=マッカール叢書」を抽出しただけだが、1、7、14と8、9と12、13は重なっているにしても、大正時代後半には集中して翻訳出版されていることになる。しかもこの『同目録』に収録されているのは初版にかぎられておらず、そこに見える三上於菟吉訳『獣人』(改造社、昭和四年)と坂井律訳『死の解放』(泰光堂、昭和十五年)も、最初は大正時代に出されていて、しかも同じ作品なのである。これらは二冊とも入手しているが、その奥付や「序」によれば、いずれも大正十二年の刊行で、前者は昭和四年普及版の「ゾラ叢書」第一篇とされている。しかしその最初の版は天佑社の『怖しき悪魔』だと考えられる。それは三上が「小序」において、数年前に抄訳を公刊したと述べているからだ。
(改造社版)
『死の解放』のほうは泰光堂ではなく、昭和七年に成光館からの出版だが、こちらの最初の版元は精華堂書店で、奥付表記から成光館が譲受出版のかたちで刊行したとわかる。坂井のプロフィルも定かでないが、やはりその「序」に見える、ゾラが「社会の醜悪や罪悪の原因を探究」し、「唯一の理想に向つた社会改造論者」という文言からすれば、プロレタリア文学関係者のように思われる。成光館に関しても、『近代出版史探索』195で取り上げているので、そちらを参照してほしい。泰光堂は『近代出版史探索Ⅱ』270でふれているように、成光館と同様の特価本出版社の系列に属している。
(『死の解放』、精華堂書店版) (『死の解放』、成光館版)
三上はその巻末「付録」の「エミール・ゾラ略伝」において、『獣人』は「ルーゴン=マッカール叢書」第十七巻『ラ・ベート・ユーメン』、すなわちLa Bête Humaine の翻訳だと断わっている。坂井も同様にそのタイトルを示しながらも、「本書の訳名 死の解放」との注記がなされている。双方とも英訳によっていることは明らかだが、後者の場合、タイトルも英訳に起因しているとも考えられる。しかしその英訳は異なるもので、本文だけで『獣人』は五四三ページ、『死の解放』は三九一ページであり、『死の解放』が抄訳だとわかる。
ただそれが英訳者によるのか、坂井によるものなのかは不明だが、その一例を示すために、両者の冒頭の部分を引いてみる。前が『獣人』、後が『死の解放』である。
ルウパウは部屋にはひつて来て麺麭や仔牛肉や白葡萄酒の罎を卓子(テーブル)に置いた。しかしヴィクトワルおかみさんは朝の仕事をしに下りていく前に、暖炉 を燃えさしで一ぱいにして了つたので殆んど餘温(ほとぼり)もなかつた。駅助役は窓を開けて眼の下の軌道の上に身を乗り出させた。
自分の部屋に這入ると直ぐにルウポーは、麺麭(パン)と白葡萄酒の瓶を卓子(テーブル)に置いたが、宿のお神さんがストーブに灰を一杯つめたまゝにしてゐるので部屋の中には少しも暖味がなかつた。それで彼は所在なさに窓を開けて目下の汽車路を見下した。其は西鉄道会社の共同宿泊所に宛てられた此高い建物の五階目の窓である。
フランス語原文は前者と同じといっていい。だが後者の場合は英訳者が抄訳を意図したことを示すように、最初のセンテンスに、前者にない「其は西鉄道会社の共同宿泊所へ宛てられた」と続く一文をつなげていることからも了解されよう。
三上は先の「小序」で、英訳者の名前は挙げていないけれど、ゾラの作品を十七冊読んだと述べている。大正を迎え、田山花袋たちの明治の丸善洋書時代と異なり、日本への洋書情報と流入状況はまったくといっていいほど進化していたはずで、ゾラにしても、その翻訳の盛況や進捗から見て、各種の英訳が日本へと伝わり、読まれていたことを物語っているのだろう。
こちらの新訳は寺田光徳訳『獣人』(藤原書店版、「ゾラ・セレクション」)である。
[関連リンク]
過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら