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古本夜話1181 中央社出版部『ゾラ著作異状なし』

 前回、関口鎮雄訳『芽の出る頃』を取り上げ、私が所持しているのは大正十二年の金星堂版の上下本ではなく、昭和二年の合本の成光館版で、こちらは特価本出版社による譲受出版であることを既述しておいた。また同書が『ジェルミナール』で、訳者の関口のプロフィルも定かでないことも。

 それに関連してネット検索をしたところ、『ゾラ著作異状なし』、関口鎮雄訳という一冊が出てきたので、早速入手した。今回はそのことを報告したい。これは背にそのタイトルが示された並製七九六ページの一冊で、表紙には背と異なり、『ゾラ著作/異状なし』と縦に並列で記され、その横には関口鎮雄訳とある。その下に本文ポイントよりも小さな字で『芽の出る頃』、及びそれをイメージさせるイラストが付されている。
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 出版社は神田区元佐久間町の中央社出版部で、昭和五年の刊行、発行者は前田千代蔵、奥付の検印部分には「不許復製」とあるので、中央社出版部が著作権を有するとわかる。ところが前回の成光館版と比べてみると、当然のことながら訳文、ページ数、本文組みもまったく同じだし、それもそのはずで、印刷者も神田区錦町の正本靕と同様なのである。異なっているのは成光館の定価二円五十銭に対して、一円九十銭と安いこと、それに並製の造本とタイトルで、明らかに「造り本」と見なせよう。

 発行者の前田千代蔵は『近代出版史探索Ⅱ』273でふれたように、大正二年創業の大阪の特価書籍卸店大文館の創業者で、『全国出版物卸商業協同組合三十年の歩み』に示された昭和九年の「全国見切本数物卸商一覧」にも、大阪市西区薩摩堀東の前田大文館の名前が見える。とすれば、中央社出版部とは特価書籍卸店も兼ねた「造り本」出版社の前田大文館の別名だとわかる。

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 まず判明している出版の事実をトレースしてみる。ゾラの関口訳『芽の出る頃』は大正十二年に金星堂から刊行された。だがそれは譲受出版のかたちで、昭和二年に特価本出版社の成光館によって再版され、同五年には中央社出版部の『ゾラ著作異状なし』として出されたことになる。こうした出版の推移から、真相を追ってみよう。

 昭和二年の成光館版は特価本出版社としては異例の函入の美本、翻訳文学の大冊であり、二円五十銭という高定価を設定せざるをえなかった。それゆえに卸正味も高くなり、露店商ルートを主とする市場の売れ行きもよくなく、在庫が残ってしまった。その一方で、一冊一円という昭和円本時代のバブルははじけつつあったし、大量の円本が特価本業界に流れこみ始めていた。しかもそれらを主として引き受けたのは、他ならぬ河野書店=成光館であったのだ。

 そうした出版状況の中で、昭和四年に中央公論社が出版部を設立し、処女出版としてルマルク、秦豊吉訳『西部戦線異状なし』を刊行し、ベストセラーになっていた。これは『近代出版史探索Ⅲ』で言及しておいたように、服部之総による企画だったと推定される。実際に石川弘義、尾崎秀樹『出版広告の歴史』(出版ニュース社)にも示されているように、その営業を担った牧野武夫による絶妙なタイトルネーミングと秦の訳文もマッチし、初版二万部で始まり、二週間で十万部を軽く売り切ることになった。定価は一円五十銭だった。牧野に関しては拙稿「円本時代と書店」(『書店の近代』所収)を参照されたい。

f:id:OdaMitsuo:20210807114039j:plain:h125 (『西部戦線異状なし』) f:id:OdaMitsuo:20210807113141j:plain:h125  書店の近代―本が輝いていた時代 (平凡社新書)

 それに新聞広告も秀逸なキャッチフレーズに満ちあふれ、昭和五年にはルイス・マイルストン監督、脚本のユニバーサル映画も上映され、アカデミー作品賞、監督賞も受賞に至り、築地小劇場などによっても劇化されていった。そして流行語として「××戦線異状なし」という言葉も生まれたとされる。これが中央社出版部『ゾラ著作異状なし』の出版背景であった。

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 特価書籍卸店と「造り本」出版社の大文館の前田千代蔵は、成光館の『芽の出る頃』の残本を安く買い占め、それを「造り本」として改修したのである。それが『西部戦線異状なし』にあやかっているのはいうまでもないし、中央社出版部も同様で、中央公論社出版部から取られていることも明白だ。その発行所が東京に置かれているも、同書が東京の出版物だと思わせるためなのだ。

 そしておそらく『ゾラ著作異状なし』は大阪以西を販売市場としていたと推測される。巻頭地方において、さすがにここまでのパクリや便乗出版は難しかっただろうし、特価本業界としても、それはできなかったし、そこで販売市場も限定されたと思われる。ただ私にしても、かなり多くの「造り本」を見てきているけれど、翻訳書を対象にして、しかもゾラの『ジェルミナール』がこのような「造り本」として流通販売されていた事実は初めて知ったことになる。一方では、前回の堺利彦訳『ジェルミナール』が読まれていたのに、このような「造り本」も流通販売されていたのである。

f:id:OdaMitsuo:20210802105652j:plain:h120(堺利彦訳『木の芽立(ジェルミナール)』)

 しかしこれも翻訳出版史の事実に他ならないし、読者や読書史においても、見逃せない出版と考えられる。それは読者において、一冊の本のもたらす影響は出版社というよりも、その作品の内実であり、この中央社出版部版にしても、ゾラの『ジェルミナール』であるゆえに、どのようにして読まれていったのか、興味は尽きない。

ジェルミナール

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