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古本夜話1182 伊佐襄訳『ジェルミナール』と高島襄治訳『ゼルミナール』

 昭和に入ると、ゾラの『ジェルミナール』は伊佐襄訳『ジェルミナール』(『新興文学全集』15,平凡社、昭和五年)、高島㐮治訳『ゼルミナール』(改造社、同九年)として刊行されている。

f:id:OdaMitsuo:20210802220611j:plain:h120 (伊佐襄訳『ジェルミナール』、本の友社復刻)f:id:OdaMitsuo:20210802215958j:plain:h120(『ゼルミナール』)

 前者の『新興文学全集』に関しては拙稿「平凡社と円本時代」(『古本探究』所収)で言及し、訳者の伊佐がプロフィル不明の人物であることを既述しておいた。それは同巻に『ジェルミナール』の翻訳だけが収録され、序も解説も訳者紹介もまったくないからだ。後者は本探索1176でふれたように、また奥付は裏に「ゾラ叢書」三冊が掲載されていることから、「叢書」第四篇としての刊行だと見なしていいように思われる。

 こちらの『ゼルミナール』には一九三四年=昭和九年付の訳者の「序」が置かれ、そこには次のような言が見える。「ルーゴン=マッカール叢書」の中でも、この作品は「十九世紀末に於いて労働者無産階級が台頭し始めたといふ事実を提示するもの」で、「その規模の広大さ、密度の纏綿さに於いて、断然、他の何の作よりも秀れてゐる大傑作」だと。この言からすれば、高島は前回の堺利彦と同様に、社会主義陣営に属する翻訳者と推測される。しかし堺と異なるのは高島が重訳ではなくフランス語から翻訳していることで、それは訳文を通じて伝わってくるし、私も『ジェルミナール』の訳者でもあるので、よくわかる。また堺訳と比較する意味で、まずは高島訳の冒頭を引いてみる。

 黒墨を流した様な真暗な夜の空には、星影一つ見えない。その下を一人の男が、マルシエーヌからモンスウへと通ずる大通の砂糖大根と盆地との間の六哩余の舗石道を、トボトボと、独りで歩るいてゐた。彼は自分の眼前の地面をさへ見ることが出来得なかつた。たゞ湿地と不毛地の上を、大海原の烈風の様に、疾走して来る三月風から、初めて広漠たる地平線の其処に存在することを感ずるのみであつた。空には一本の影をもとゞめず、舗道は真暗な濃霧の闇の中に、防波堤の様に、真直ぐに展けてゐた。

 さてこれを先行する伊佐訳の最初の一節と照らし合わせてみる。それは「墨を流した様な真暗な夜空には、星影一つだにない」で、「墨」と「黒墨」、「夜の空」と「夜空」、「だにない」と「見えない」が異なるだけで、その他は漢字やカタカナ表記のちがいはあるにしても、まったく同じである。

 ということは実質的に改造社の高島訳『ゼルミナール』は、平凡社の伊佐訳『ジェルミナール』のほとんどそのままの再版ということになろう。その事実は「襄」の一字が重なる伊佐と高島は同一人物で、どのような経緯と事情があってのことなのか不明だが、タイトル表記と訳者名と出版社を変え、再版されたことを意味している。そこに至るプロセスとして、ふたつのことが考えられる。

 昭和五年の『新興文学全集』所収の『ジェルミナール』はフランス語からの初邦訳だったが、品切となり、全集ゆえにその巻だけの重版はできず、数年が過ぎていた。しかしその後新訳は出されておらず、フランス語からの初邦訳版は入手が難しいままの状態が続いていた。それに加えて、伊佐=高島もそうした長きにわたる『ジェルミナール』品切状況を残念に思い、「ゾラ叢書」を刊行したしていた改造社へと再版を持ちかけたのではないだろうか。ただ平凡社と改造社の関係もあり、そのままでは再版できないので、タイトルと訳者名だけでなく、少しばかり最初の部分だけを修正しての出版となったように思われる。

 そうした持ち込み企画を示しているかのように、奥付の検印紙には発行者たる山本三生の印が押されていて、これは印税ではなく、改造社の買切原稿の事実を伝えている。またこの伊佐=高島のこともずっと留意しているのだが、『新興文学全集』のブレインを務めたのは『近代出版史探索』188などの吉江喬松であり、その関係者だと思われてならない。唯一の手がかりは『新興文学全集』に付されている月報代わりの「新興文学」と題する定期刊行物である。しかしこちらは一冊も目にしておらず、これからもその入手は難しいと考えられる。

 それだけでなく、『ジェルミナール』のフランス語からの初邦訳者で、平凡社と改造社から二度にわたって刊行したにもかかわらず、そのプロフィルがまった判明していないのは、伊佐=高島に何らかの特異な事情が秘められていたことになるのだろうか。近代翻訳史にも多くの謎が秘められているが、これはゾラをめぐる翻訳の謎のひとつである。なお伊佐にはユスポフ『ラスプーチンの暗殺秘録』(大衆公論社、昭和五年)もあるようだ。

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 さてここで、このような機会だから、最後に先に引いた『ジェルミナール』の最初の部分に関して、私の新訳も示しておくことにしよう。

 星なき夜の平野は漆黒の暗闇に包まれていた。一人の男がマルシエンヌからモンス―に向かう大街道を歩いていた。この十キロにわたる道路はビート畑の間をまっすぐに通っていた。彼の前には黒い土さえ見えず、広大な地平は三月の風の吹き寄せによって感じられるだけだった。海にいるような激しい突風が十キロにわたる沼沢地やむきだしの大地を吹き払い、冷えこませていた。一本の木の影も空には映らず、道路は陰鬱な暗闇の只中をまっすぐな突堤のように伸びていた。
ジェルミナール

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