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古本夜話1195 森田草平訳『デカメロン』と『補遺デカメロン』

 浜松の時代舎で、新潮社の森田草平訳『補遺デカメロン』を入手してきた。これは第一期『世界文学全集』2の別冊で、『日本近代文学大事典』の「叢書・文学全集・合著集総覧」において、「『補遺デカメロン』あり」と付記されていたけれど、実物は初めて目にするものだった。『世界文学全集』と同じ四六判だが、函はなく、並製一六〇ページである。奥付に森田の検印も押されていないことから判断すれば、『世界文学全集』予約者には付録のようなかたちで、無料配布されたと思われる。しかしこれにも若干の説明が必要であろう。

 ボッカチオ『デカメロン』は『世界文学全集』2として、昭和五年二月に刊行されている。だがこの翻訳は「第三日」の七話を始めとして、「略」されたものが、「補遺」の一冊となり、その半年後の八月に刊行されたのである。ただそのような全集付録の体裁だったことから、これまで見かける機会を得なかったのだろう。

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 『近代出版史探索』17、18で、梅原北明たちの朝香屋書店『全訳デカメロン』刊行の経緯と出版イベントにふれているけれど、新潮社の『デカメロン』にも翻訳に伴う事情があり、それが「略」を生じさせ、半年後の「補遺」の出版となったと思われる。森田は「訳者の序」で書いている。

 この翻訳は亡友益田国基君が先づ独逸語訳から日本語に移して、その下訳を傍らに置きつゝ、私が又同じ独逸語訳から訳し直したものである。だから、日本語に移された文章は一字剰さず悉く私の責任であるけれども、そこには益田君の加はつてゐることを否定し得ない。そして独逸語の読解力は私よりも益田君のほうに遙かに優つてゐる。しかし、私の独逸語読書力と雖も、後から読む際には、前に益田君が犯した不用意の誤訳を発見し訂正する位には十分なものがあると信じてゐる。つまり二人は相補ひ相扶けて共同作業をした。この意味に於て、私どもの「デカメロン」訳は所謂綜合翻訳なるものを一文の懸値なしに、正直に実用したものであることを公言して憚らない。若し綜合翻訳に意味があるとすれば、それは必ずかうして二重の手間と時間を懸けたものでなければならないからである

 円本時代の多くの翻訳全集はこの「綜合翻訳」が導入されていたはずだが、このように具体的に記述されているものは少ない。しかしこの益田は昭和二年春からの翻訳中に病魔に侵され、出版の日を待たずに、五年一月に鬼籍に入ってしまった。益田は『日本近代文学大事典』の索引に名前だけは見えている。彼は大正十年代に表現主義の紹介と導入に関係した人物のようで、それもあってドイツ語に通じていたのだろう。その益田の病気だけでなく、森田も三度順天堂大学に入院したことも加わり、訳了も遅延してしまったことから、定期配本を宿命づけられた全集ゆえに、「略」のままでの出版になったと推測される。

 だがこのようなプロセスもあり、森田にとっても「実に想出の深い全訳である」し、新潮社にしても、完訳が望ましいのはいうまでもない。そのためにイレギュラーなかたちの『補遺デカメロン』が刊行されたのではないだろうか。

 このような森田の翻訳への持続する配慮は、彼がそれ以前に本探索1053などの国民文庫刊行会の訳者兼編集者だったことに起因しているにちがいない。私もかつて彼の『千一夜物語』の翻訳にふれているけれど、森田は夏目漱石の弟子で、『煤煙』の作者だとばかり思っていた。ところが『煤煙』所収の『寺田寅彦・森田草平・鈴木三重吉集』の「年譜」の大正三年のところに、「この後十数年間に亙りて常に翻訳の筆を絶たず」とあるのを見出した。本探索1191のダンヌンツィオばかりでなく、国民文庫刊行会のゲーテ『ウイルヘルム・マイステル』二冊、セルヴァテス『ドン・キホーテ』二冊、デュマ・フィス、アナトール・フランス『椿姫・タイス』一冊の翻訳者でもあったのだ。

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 これらは『千一夜物語』四冊も含め、国民文庫刊行会の「世界名作大観」全五十巻に収録されている。かつて拙稿「鶴田久作と国民文庫刊行会」(『古本探究』所収)を書いた際に、その明細リストを巻末に示しておいたが、その後入手していないこともあって、失念していたことになる。

 また森田の「年譜」は昭和六年に、「法政大学の人々数人にてジェームズ・ジョイスの翻訳の企てあり、諸氏の共訳に眼を通すため仲間入りさせられる」の記述を見て、どう考えてもふさわしくない森田が訳者として名前を連ねていた事情を了解したのである。彼は大正九年に法政大学教授になっていた。他の訳者は名原広三郎、竜口直太郎、小野健人、安藤一郎、村山英太郎で、本探索1015などの第一書房と異なる岩波文庫版『ユリシーズ』は法政大学の英語教師たちによって担われていたことになり、それはそれでもうひとつの翻訳物語を生じさせていよう。

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