出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1198 廣文堂書店、小中村清矩遺著『有聲録』、石川文栄堂

 これまで譲受出版に関して、特価本や造り本出版社の多くの例を挙げてきたけれど、それらからわかるように、出版金融と人脈が錯綜し、一筋縄ではいかない世界でもある。本探索1192で、新潮社の『椿姫』の例も挙げたばかりだ。そのために先行する研究もないし、まとまった記録や資料も残されていないが、譲受出版のかたちで流通販売され、読者の手にわたった出版物はトータルすれば、膨大な量に及んだと推測できる。それは近代出版史や読書史から見て、看過すべきものではないと思われる。

 しかもそれが出版社と一部の出版物がそのまま譲受された例もあり、最近になってその事実を示す一冊に出会ったので、そのことを書いてみる。小中村清矩遺著『有聲録』で、大正四年に廣文堂書店から出されている。菊判函入、上製四七二ページの堂々たる一冊である。函は下の部分に草花をあしらい、その上に鳥ならぬ小さな虫が飛んでいるようなレイアウト、造本もシックで、出版者の見識をうかがわせているように映る。

f:id:OdaMitsuo:20210826140953j:plain:h120f:id:OdaMitsuo:20210826142033j:plain:h120 f:id:OdaMitsuo:20210827111111j:plain:h120(『有聲録』)

 『日本近代文学大事典』を引いてみると、著者も見出されるのである。

 小中村清矩 こなかむらきよのり 文政四・一二・三~明治二八・一〇・九(1821~1895)国学者、歌人。江戸生れ。原田氏。名は栄之助、金四郎、金右衛門。号は陽春盧(やすむろ)。国学者小中村氏の養子となり、本居内遠、伊能顚則の学統をうけ、和学講談所に講じ、明治一二年東大教授。文学博士。国史、国文の発展に寄与。貴族院議員となる。『歌舞音楽略史』『官制沿革略史』『令義解講義』など著述多く、『小中村清矩家集』は未刊のまま国会図書館に蔵されている。

f:id:OdaMitsuo:20210827113611j:plain:h120(『小中村清矩家集』)

 この立項を閲し、『有聲録』を読むと、「はしがき」は加藤弘之が寄せ、小中村の没後二十年にあたっての孫の清象による出版だとわかる。小中村は十六歳年下の加藤とともに、明治初年に大宝律令に通暁していたことから、制度調査の職務に携わり、それに津田真道、森有礼、神田孝平たちも連なっていた。

 『有聲録』は「遺著」とあるように、「日記」や「紀行」、未刊行の「詞」や「記」など、各書に寄せた「序」から編まれ、その中でも興味深いのは明治十年代後半の「日記」で、伊香保本選ではヘボンに会い、箱根の温泉ではチェンバレンと語り合っている。そして「へだてなき友となりぬことの葉も/こゝろもかよふ西の国人」という一首も詠まれ、彼らの日本語研究にしても、小中村たちとの交流が不可欠だったことを教えてくれる。それに巻末の中邨秋香「小中村清矩小伝」であらためて知ったが、小中村は本探索1107の『古事類苑』編纂委員長でもあったのだ。

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 それらのことはさておき、本題に入らなければならない。実はこの『有聲録』が譲受出版であり、版元の廣文堂書店の他の出版物もそうなったと考えられるからだ。それは奥付に鮮明に示されている。廣文堂は発行者を大倉廣三郎とするもので、住所は京橋区南槇町とされているので、廣文堂も同じくそこにあったはずだ。ところがその発行所を示す部分には新たな一枚の紙が貼られ、そこには発行所として、本郷区元富士町の石川文栄堂とある。これは『有聲録』に限ってそうなのかは不明だが、函にも本体にも廣文堂名は記載されておらず、その名前は本扉だけにあり、そちらは本を汚すことを回避するためなのか、消されていない。したがって、奥付の発行所名を張り替えることで譲受出版としたのであろう。

 私にしても、浜松の典昭堂で『有聲録』を入手することで、版元としての廣文堂と石川文栄堂を知ったのである。それに加えて驚かされたのは、その巻末広告にとして五十五冊が掲載され、ほとんどが「クロース綴函入頗美本」、つまり『有聲録』と同じ造本であったことだ。ちなみに『近代出版史探索』シリーズでふれてきた著者を挙げれば、井上哲二郎『人格と修養』、佐々木信綱『文と筆』、高楠順次郎『道徳の真義』、浮田和民『人格と品位』、黒岩周六『実行論』、大町桂月『我半生の筆』、馬場孤蝶『近代文芸の解剖』、吉田東伍『日本文明史話』、岩野泡鳴『近代生活の解剖』、大槻文彦『復軒雑纂』などである。だが一冊も見ていないし、この中で架蔵しているのも、泡鳴の『近代生活の解剖』で、それは本探索1019の『泡鳴全集』第十六巻所収としてだ。

 f:id:OdaMitsuo:20210827142858j:plain(『日本文明史話』)f:id:OdaMitsuo:20210827144454j:plain:h120f:id:OdaMitsuo:20210827144117j:plain:h120(『人格と修養』)f:id:OdaMitsuo:20200410112527j:plain:h115(『泡鳴全集』)

 これらの著者と出版物から考えても、大正前半において廣文堂はそれなりの版元で、発行者の大倉名からすれば、大倉書店の近傍にあったと思われる。それなのに『日本出版百年史年表』にもその版元は見当らない。そこで大正七年の『東京書籍商組合図書総目録』を引いてみた。『同目録』の編輯兼発行者の代表は大倉書店の大倉保五郎である。

 すると廣文堂は八ページ、三〇〇点余が掲載され、主体は小学校教科書、教材、学習参考書、実用書、健康書などで、先の「最新名著目録」はその一部にすぎないことが判明した。だが『同目録』をには石川文栄堂は見出せない。特価本出版社ゆえに東京書籍商組合に加入しておらず、当初は廣文堂の一部の出版物の譲受出版と推測したが、廣文堂の全目録を見る
及んで、「最新名著目録」の中でも、この一冊だけの譲受出版だったとも考えられる。それにこの『同目録』は拙稿「図書総目録と書店」(『書店の近代』所収)でもふれているが、明治二十六年から昭和十五年かけて全九冊が刊行されている。その中でも、この大正七年版は最も厚く、十センチを超え、明治末から大正にかけての出版の隆盛を伝えていよう。それとともに、大正時代の出版業界の謎の多くをも孕んでいるように思える。

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