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古本夜話1199 新潮社『世界文芸全集』

 前回の譲受出版と同様に、ずっと新潮社の円本『世界文学全集』にふれてきたが、この企画も昭和を迎えていきなり出現したわけではなく、大正時代の翻訳出版の集積があって結実した円本全集に他ならない。その主たるベースとなったのは大正九年から刊行され始めた『世界文芸全集』である。

 ところが古本屋でもこの『世界文芸全集』全巻揃いを見たことがなく、もちろん私も所持しているのは八冊だけにすぎない。それもあって、最終的に何冊出たのかだが、『新潮社四十年』(昭和十一年)によれば、全二十五巻、『新潮社七十年』(同四十二年)には三十二巻まで刊行とある。これは前者の「新潮社刊行図書年表」を追っていくとわかるのだが、既刊単行本や叢書が次々と『世界文芸全集』に加えられていった経緯から生ずる巻数のカウントちがいで、二十五巻以後の刊行が散発的なことに起因しているのだろう。

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 『日本近代文学大事典』や矢口進也『世界文学全集』(トパーズプレス)は『新潮社七十年』にならって、全三十二巻を採用している。しかし書誌研究懇話会編『全集叢書総覧新訂版』では全三十三巻となっている。このような長期にわたる散発的な全集の書誌の難しさを実感するけれど、ここでは三十二巻のリストを挙げてみる。
 
世界文学全集 全集叢書総覧 (1983年)

1 フロオベエル  中村星湖訳 『ボワ゛リイ夫人』
2 ゲエテ  中島清訳 『ヰ゛ルヘルム・マイステル』前編
3 メレジユコフスキイ  米川正夫訳 『神々の死』
4 ストリンドベルヒ  阿部次郎、江馬修訳 『赤い部屋』
5 ゲエテ  中島清訳 『ヰ゛ルヘルム・マイステル』後編
6 メレジユコフスキイ  米川正夫訳 『神々の復活』前編
7 ゾラ  宇高伸一訳 『ナナ』
8 スタンダアル  佐々木孝丸訳 『赤と黒』前編
9 メレジユコフスキイ  米川正夫訳 『神々の復活』後編
10 バーナード・ショウ  市川又彦訳 『ショウ一幕物全集』
11 ゾラ  木村幹訳  『居酒屋』
12 スタンダアル  佐々木孝丸訳 『赤と黒』後編
13 トルストイ  米川正夫訳  『戦争と平和』1
14   〃     〃       〃    2
15   〃     〃       〃    3
16   〃     〃       〃    4
17 ジョルジュ・サンド  福永渙訳 『モーブラア』
18 エドワード・リットン  中村詳一訳 『ポンペイ最後の日』
19 モーパッサン  広津和郎訳 『美貌の友』
20 ユーゴー  豊島与志雄訳 『レ・ミゼラブル』1
21  〃      〃       〃       2
22  〃      〃       〃       3
23  〃      〃       〃       4
24 トルストイ  原久一郎訳 『アンナ・カレーニナ』1
25    〃       〃      〃     2
26    〃       〃      〃     3
27 ロマン・ロラン  豊島与志雄訳 『ジャン・クリストフ』1
28   〃        〃          〃      2
29   〃        〃          〃      3
30   〃        〃          〃      4
31 バルザック  布施延雄訳 『従妹ベット』
32 クープリン  梅田寛訳 『ヤーマ』

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 こうしてあらためてリストアップしてみると、この『世界文芸全集』の特色は長編小説の完訳と普及にあったことが浮かび上がってくる。それも大長編の原語からの訳で、トルストイの『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』、ユーゴー『レ・ミゼラブル』、ロマン・ロラン『ジャン・クリストフ』などに明らかだし、『レ・ミゼラブル』は円本の『世界文学全集』にも引き継がれていった。そして私たちは戦後に出された各社の世界文学全集において、必ずこれらの大長編小説の収録も見ているが、その発祥はこの『世界文芸全集』にあったことになる。

f:id:OdaMitsuo:20180911142905j:plain:h115(『世界文学全集』)

 先に異なる叢書などで『世界文芸全集』収録のものが出されていたことにふれたけれど、『レ・ミゼラブル』の場合を見てみる。これは大正七年から八年にかけて、「翻訳叢書」として刊行されている。この「叢書」は『世界文芸全集』がB6判であることに対し、菊半截判と一回り小さい。私が入手したのは第三巻までだが、第一巻は大正十年十四版、第二巻は同九ね八範とあり、好調な売れ行きを伝えている。

 『アンナ・カレーニナ』や『ジャン・クリストフ』も同様で、『戦争と平和』だけは「縮刷全訳叢書」として刊行されていて、それらが順次定版としての『世界文芸全集』へと移され、その巻数が増えていったと思われる。それが全巻の把握と確定を難しくしているのだろ。ただ「翻訳叢書」と『世界文芸全集』をトレースしてくると、その結実というべき『世界文学全集』と異なるところが見えてくる。それは奥付で、「翻訳叢書」と『世界文芸全集』には翻訳者の検印がない。これは当時の翻訳が買切で、印税が発生しなかったことを意味している。『ナナ』がベストセラーとなり、大正十二年の新潮社の新社屋がナナ御殿と称されたのも、印税なきベストセラーゆえに、いかに利益が上がったのかを象徴しているように思える。

f:id:OdaMitsuo:20210723104645j:plain:h110(『世界文芸全集』) f:id:OdaMitsuo:20210803165141j:plain:h110(『世界文学全集』)

 それに対して、『世界文学全集』は全館の奥付の検印紙に訳者の押印が認められ、円本時代に至って訳者にも印税が支払われようになったことを告げている。昭和円本時代は大正と異なり、作家だけでなく、訳者にも大きな富がもたらされたことになろう。

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