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古本夜話1212 国民教育普及会『怖ろしき夢魔・獣人』

 前回、天佑社のゾラ『貴女の楽園』の巻末広告に、やはり三上於菟吉訳『怖ろしき夢魔』『苦き歓楽』、松本泰訳『アベ・ムウレの罪』が既刊として並んでいることにふれた。また『近代出版史探索Ⅵ』1176、1179で、『怖ろしき夢魔』が『獣人』として、改造社の「ゾラ叢書」に収録され、それは『アベ・ムウレの罪』も同様であることに言及しておいた。

f:id:OdaMitsuo:20210910210514j:plain f:id:OdaMitsuo:20210910210036j:plain:h112(『貴女の楽園』)f:id:OdaMitsuo:20210912140056j:plain:h118f:id:OdaMitsuo:20210912140317j:plain:h118(天佑社版『怖ろしき夢魔』)

 私の場合、天佑社版『怖ろしき夢魔』『苦き歓楽』は入手していないが、前者の国民教育普及会版『怖ろしき夢魔・獣人』と後者の元泉社版『歓楽』は手元にある。ここでは『歓楽』のほうが大正十二年五月の刊行なので、こちらを先に取り上げる。『歓楽』は『近代出版史探索Ⅲ』435で既述しておいたように、大正十一年に三上が植村宗一(後の直木三十五)と立ち上げた元泉社からの出版である。奥付には訳者兼発行人として三上於菟吉の名前が記載されている。これには訳者による「小序」が付され、同書の翻訳が『近代出版史探索Ⅵ』1189の Hutchinson 版の Joy of Life を底本としていること、また「此の書の第一訳は数年前某書肆から公刊されたが、今度の改訳は勿論あらゆる点で前者を凌駕する」と述べられている。

f:id:OdaMitsuo:20210912144539j:plain:h120 (元泉社版『歓楽』)

 私は元泉社版が先に出され、それが天佑社の『苦き歓楽』として引き継がれたとばかり思っていたが、それは逆であったことになる。とすれば、『貴女の楽園』の最初に訳者の「『改版』について」が置かれ、「第一版の本書の巻末は、私が最近ひどく健康を害して業がはかどらなかつたため助手の手を借りたので大分読み難いとことが多かつた」ので、「出来る限り手を入れた」とあるのは、『貴女の楽園』も異なる版が出ていることになる。

 大正十年の金星堂の大島匡助訳『怨霊』は入手できていない。だが『近代出版史探索Ⅱ』325で書いているように、同十五年の石渡正文堂版『呪はれたる抱擁』は手元にあり、これは『近代出版史探索Ⅵ』1180の『芽の出る頃』の訳者関口鎮雄による『テレーズ・ラカン』である。関口の『ゾラ著作異状なし』に関しては同1181で取り上げている。そうした翻訳と出版をめぐる問題はゾラだけでなく、多少時代の多くの翻訳書につきまとい、謎だらけというしかない。

f:id:OdaMitsuo:20210804160827j:plain:h120 

 それはまさに『怖ろしき夢魔・獣人』にも見ることができよう。こちらは大正十年に天佑社から出された。『怖ろしき夢魔』の譲受出版と見なしていい。大正十三年に本郷区本富士町の国民教育普及会の刊行で、発行社は下谷区中根岸の岩田誠一郎となっている。『近代出版史探索』61などの坂東恭吾が帝国図書普及会、同296の大京堂の神谷泰治が趣味の教育普及会を名乗っていたように、下谷区中根岸の岩田にしても、特価本業界に属し、彼らの近傍にいて、国民教育普及会を立ち上げたのであろう。

 しかし奥付を見ると、九月十日三十五版発行はともかく、譲受出版を示す「不許可複製」の記載はなく、海賊出版のような印象を与える。定価二円七十銭も高く感じられる。これは最初から特価本業界の流通販売るーとで、低正味買切制によって注文を募り、卸すという単独商品だったのかもしれない。壇原みすずは「天佑社の時代・金尾文淵堂との関係」(『小林天民と関西文壇の形成』所収)において、「大正十二年の関東大震災で天佑社は瓦解し、書籍十数万冊と本の紙型も全て焼失して、廃業の止むなきに至ったのである。天佑社の活動はわずか四年間であった」と述べている。

 それは天佑社だけでなく、同じくゾラを翻訳出版していた大鐙閣や元泉社も同様であった。その一方で、新潮社のナナ御殿は安泰だった。このような関東大震災後の出版状況の中で、特価本業界は出版金融も絡んだ魑魅魍魎的といっていい譲受出版を広く鵜展開していく。

 それらをあらためて正規の出版業界へと回収するために、『獣人』『アベ・ムウレの罪』を収録する改造社の「ゾラ叢書」が企画されたと思われてならない。したがって三上訳『獣人』は天佑社版『怖ろしき夢魔』、国民教育普及会『怖ろしき夢魔・獣人』を経て、昭和に入り、「ゾラ叢書」に加えられたことになる。それは三上による「ゾラに就いて」も同様の回路を見ている。三上と天佑社、また大鐙閣のゾラの翻訳を考えただけでも、十冊以上に及ぶわけだから、当初は改造社の「ゾラ叢書」もかなりの巻数を予定していたのではないだろうか。

f:id:OdaMitsuo:20210802111556j:plain:h120(改造社版)f:id:OdaMitsuo:20210722112638j:plain:h120(改造社版)

 ところが予測以上に譲受出版は広く行なわれ、そのために「ゾラ叢書」も三冊で終わってしまった。それにこの時代にはもうひとつの『獣人』訳も刊行されていたのである。それは『近代出版史探索Ⅵ』1179で言及した坂井律訳『死の解放』としてで、私の手元にあるのはこれも『近代出版史探索』194などの成光館からの出版だが、奥付の記載から「大正十二年五月発行」の譲受出版だとわかる。その版元名は『近代出版史探索Ⅵ』1179で指摘しておいたように、精華堂書店である。しかも成光館版は昭和七年の刊行なので、すでに譲受出版は数社を経たと考えるほうが妥当であろう。その後も昭和十五年に『近代出版史探索Ⅱ』270の泰光堂版が出されている。

f:id:OdaMitsuo:20210729120231j:plain:h118(『死の解放』、精華堂書店版) f:id:OdaMitsuo:20210801171138j:plain:h120(『死の解放』、成光館版)

 したがって『近代出版史探索Ⅵ』1179で指摘しておいたように、この二冊は訳文も付されたゾラ作も異なり、一方は改造社、他方は特価本業界の出版社を通じて、大正十年代から昭和戦後にかけて、読まれ続けてきたことになる。それにしても訳者の坂井はどのような人物であったのかが気にかかっているけれど、現在に至るまで判明していない。


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