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古本夜話1215 世界文豪代表作全集刊行会と井上勇訳『ナナ』

     

今にして、われ穢れたるものなること、道
                 穢れたるものの一族なること露われぬ。
                 おお、なんじ、わが血を吸いたる三つの道よ、
                 なれ、隠れたる谷、樫の林よ、三つの道の狭き出口よ。
                             『暴君オイディプス』


 これもずっと未入手だった『世界文豪代表作全集』の井上勇訳『ナナ』をようやく見つけた。この『世界文豪代表作全集』『近代出版史探索』197で既述しておいたように、奥付発行者の島中雄三と世界文豪代表作全集刊行会は、彼が設立主宰した文化学会出版部の別名で、これも「非売品」表記から円本に位置づけられる。ただ菊判は上製700ページ前後の大冊で、予約定価は四円五十銭とされていることからすれば、読者直販が主で、同161などの近代社や『近代出版史探索Ⅵ』1196の国民文庫刊行会と同じく、昭和円本と一線を画する高級な造本、高定価の企画を意図していたと考えられよう。

f:id:OdaMitsuo:20210924153918j:plain f:id:OdaMitsuo:20210925112045j:plain:h110  f:id:OdaMitsuo:20210923145616j:plain:h112 (『ナナ』)

 それは先の拙稿でイプセンの巻にも見てきたが、『ナナ』にも顕著でこの七〇〇ページを超える天金の一冊はどっしりと重く、全巻を揃えれば、書架において見栄えするにちがいない。島中は中央公論社の島中雄作の兄であり、平凡社の下中弥三郎とも知り合い、大正十五年には安部磯雄を委員長とする社会民衆党を結成し、昭和四年には東京市議会議員に当選している。そうした島中の動向に寄り添うようにして、文化学会も設立され、『世界文豪代表作全集』も企画されていったのである。そこには大正時代の「文化」も表象されているのだろう。幸いにして、矢口進也『世界文学全集』にその明細がリストアップされているので、それを挙げてみる。

世界文学全集

1 ホーマア 馬場孤蝶訳 『イリアード』
2 ダンテ 中山昌樹訳 『神曲』(「地獄篇」「煉獄篇
3 ダンテ 中山昌樹訳 『神曲』(「天国へ」)『新生』『書簡集』
4 シェークスピア 高原延雄訳 『ハムレット』『オセロー』『ヴェニスの商人』
5 ミルトン 木内打魚訳 『失楽園』
6 ゲーテ 中島清訳 『ファウスト』第一部
7 〃    〃      〃   第二部
8 ユーゴー 水野亮訳 『レ・ミゼラブル』上巻
9  〃   〃     〃      中巻
10  〃  〃    〃     下巻
11 ツルゲーネフ 昇曙夢・山内封介訳 『父と子』『ルーヂン』
12 イプセン 中村吉蔵・秋田雨雀訳 『ブランド』『人形の家』『我等死者醒めなば』
13 ドストエーフスキー 中村白葉訳 『罪と罰』上巻
14  〃     〃      〃  下巻
15 ゾラ 井上勇訳 『ナナ』
16 ストリンドベルィ 宮原晃一郎訳 『死の舞踏』『父』『債権者』『パーリヤ』『復活節』
17 トルストイ 内田魯庵訳 『復活』
18 メーテルリンク 布施延雄訳 『青い鳥』『婚約』『群盲』『ペレアスとメザリンド』
『アグウヴェスとセリット』『モンナ・ヴァンナ』

f:id:OdaMitsuo:20210925113229j:plain(『ファウスト』)

 その15がゾラの『ナナ』で、『近代出版史探索Ⅵ』1188でふれたように、訳者の井上はすでに『呪われたる抱擁』(『テレーズ・ラカン』)、『制作』を手がけているので、ゾラは三冊目となる。しかも『世界文豪代表作全集』版は本探索1206の明治三十六年の永井荷風訳『女優ナナ』以来の邦訳決定版、つまりフランス語からの本邦初訳と見なせよう。それに大正十五年の刊行でもあり、『ナナ』の翻訳の大正時代のトリに位置していたし、実質的に文化学会出版部ということも加わり、井上としてもそれなりに自負する仕事だったように思える。

f:id:OdaMitsuo:20210814100331j:plain:h115f:id:OdaMitsuo:20210814100052j:plain:h115(井上訳『制作』) f:id:OdaMitsuo:20210906144741j:plain:h115f:id:OdaMitsuo:20210906144511j:plain:h115(荷風訳『女優ナナ』)

 それは井上の「序」にうかがわれる。彼はゾラの作品の支持者は「プチ・ブウルヂョワ」で、そのために『居酒屋』『ナナ』『大地』『壊滅』は二十万部を超えるベストセラーとなったけれど、『ジェルミナール』や『制作』はそうではなかった。また続けてゾラの「ブウルヂョワ趣味と、稚拙なる科学と、猥雑なる行文」は「芸術家としての致命的な欠点」だと指摘し、文においてフローベールに劣り、才においてモーパッサンにも負けていると断罪し、「彼の芸術は或ひは時代と共に亡びるかも知れない」とまで書いている。

 この井上の「序」におけるゾラ否定論は巻末の「ゾラの人と作との意義」にも引き継がれ、見え隠れしている。しかしこれが真実の見解であれば、わざわざ『ナナ』の翻訳も望まないだろう。それゆえにそうした見解は意図的戦略で、荷風訳『女優ナナ』以来の発禁処分に抗するものだったのではないだろうか。それは当時の井上の同盟通信外信部部長という立場に加え、島中雄三の文化学会出版部版『世界文豪代表作全集』に発禁というスキャンダルを誘発してはならないとの暗黙の了解があったからだろう。

 先の『世界文豪代表作全集』のラインナップからしても、そうしたリスクを孕んでいるのは『ナナ』の一巻しかない。それは井上の翻訳にも投影され、『ナナ』が物語の冒頭で、ヴィーナスに扮し、衝撃的に舞台に姿を見せるシーンはほとんどストリップティーズのように描かれているのだが、次のように処理されている。

 彼女は狼狽もせず、ぎゆつと、その腰をひねつて前に突出し、薄い下衣をすかしてふくらかな肉体の線を見せ、それと同時に上半身をを折つて、咽喉をそらし、双の腕をひらいた。割れんばかりの拍手が爆発した。忽ち、彼女は身を翻すと金褐色の髪が、獣の渦毛のやうに垂れ下がつてゐる項を見せながら舞台を上つて行つた。その時喝采は狂せんばかりになつた。

 これに対して、私の新訳『ナナ』(論創社)を並置すれば、いかに改訳されたかがただちにわかるのだが、そこまでする必要はないだろう。必要とあれば、拙訳に直接当たってほしい。翻訳もまた検閲との闘いでもあったのだ。
 
ナナ (ルーゴン=マッカール叢書)

 私は中学時代に創元推理文庫のエラリー・クイーンやヴァン・ダインはいずれも井上訳で読んでいた。エピグラフとして挙げた『暴君オイディプス』は、やはり同文庫の井上訳のロス・マクドナルド『三つの道』の冒頭におかれ、それを『ゾラからハードボイルドへ』(『近代出版史探索外伝』所収)で言及している。これも井上訳と思われ、まさにナナを始めとする「ルーゴン=マッカール一族」を表象しているようでもあるので、先に掲げておいたのである。

三つの道 (創元推理文庫 132-3) 近代出版史探索外伝    

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