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古本夜話1217 中央公論社『堺利彦全集』とゾラ『子孫繁昌の話』『労働問題』

 前回のゾラ『肉塊』(『パリの胃袋』)の訳者が秋庭俊彦ではなく、堺利彦の売文社の関係者ではないかと推測しておいた。また実際に本探索1202の奥栄一も売文社の翻訳係だった。

f:id:OdaMitsuo:20210914084655j:plain:h105(『肉塊』)

 それに『近代出版史探索Ⅵ』1180でふれたように、堺も『木芽立』(アルス、大正十年、『ジェルミナール』と改題して同十二年)を刊行している。さらにゾラの「ルーゴン=マッカール叢書」に続く「四福音書」のうちの『多産』を『子孫繁昌の話』(内外出版協会、明治三十五年)、『労働』を『労働問題』(春陽堂、同三十七年)として翻訳している。

f:id:OdaMitsuo:20210802105652j:plain:h120(『木の芽立』)f:id:OdaMitsuo:20210921120556j:plain:h120

 あらためて考えてみると、社会主義陣営にあった人々によって、ゾラだけでなく、他にも多くの外国文学が翻訳されていたし、それはコミュニズムを始めとする社会科学文献と比べても、遜色のない影響を与えていたと思われる。堺の場合、元々作家志望で、それは明治三十二年に万朝報社入社後の著作、翻訳にも反映され、また三十六年には自ら由分社を設立し、『家庭雑誌』を刊行し始めている。そして同年には幸徳秋水や内村鑑三とともに日露戦争非戦論を唱え、万朝報社を退社し、幸徳と平民社を設立し、『平民新聞』の創刊に至る。そうした軌跡を経て、大逆事件後の「冬の時代」の明治四十四年に売文社を開業することによって、大正文学と併走するかたちで翻訳出版もなされていたと見なせよう。

 先の『子孫繁昌の話』や『労働問題』の単行本は未見だったが、このほど『堺利彦全集』全六巻を入手し、それらが収録されていることを確認できた。前者は第二巻、後者は第三巻で、『ジェルミナール』も第六巻に見出された。この『堺利彦全集』は彼の死後の昭和八年に中央公論社から刊行されている。監輯は山川均、荒畑寒村、白柳秀湖、大森義太郎で、装釘は小川芋銭によるものだ。それらの解説は全巻を通じて荒畑の名前で書かれていることからすれば、実質的編集は彼が担ったと考えるべきだろう。

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 『中央公論社の八十年』には『堺利彦全集』刊行についての経緯と事情は記されていないけれど、堺の死と同年に「非売品」という円本と同様の予約出版形式で出版されたことは、それが以前からの用意周到な計画であったことを伝えているし、図らずも第一巻の編纂委員名で出された「はしがき」がそのことを物語っている。

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 堺利彦全集刊行の企に着手したのは、堺氏がなほ病床にあつた昨年十一月の頃だつた。この計画は島中雄三氏の発意により、旧友同志の間に勧められてゐた。島中氏が、全集刊行のためにこの時期を選んだのは、堺氏のために若干の療養費を得るためであつた。この全集が堺氏の文筆上の全業績とならうとは、当時は何人も予測しなかつた。

 『近代出版史探索Ⅵ』1125などで示してきたように、島中が中央公論社社長であることはいうまでもないし、これも荒畑によるものであろう。この全集が堺の「若干の療養費」のためで、「文筆上の全業績」を想定していなかったことになる。編集協力者として平林たい子の夫の小堀甚二、宮武外骨の名前が挙げられ、後者によって、第一巻所収の『万朝報』時代の堺の記事が提供されたとわかる。なお社会主義者の全集らしからぬ瀟洒して優しい装釘と造本も小川ならではのものだと了承するのである。

 さて前置きが長くなってしまったけれど、『子孫繁昌の話』『労働問題』に言及しなければならない。これも堺自身に語らせたほうがいいだろう。『労働問題』の「まえがき」で、次のように書いている。

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 此大作家が生前に於ける最近の事業は、フルトトフルネス(多産)、ワーク(労働)、トルース(真理)、ジャステス(正義)と題する四冊連関の叢書であつて、此叢書は彼れが多年養ひ来つた所の思想の全部を統一整頓してそれを人生の四大要素して、バイブルの四福音書になぞらへた者である。彼れ曰く「多産は家庭を作る。都市之より生ず。市民の観念ありて祖国の観念あり。愛国の心を養ふに学問を以てすれば、更に広大なる祖国の思想となり、終に全世界の人民を包含するに至る」と、即ち知るべし、第一冊「多産」は新家庭建設の理想を説き、第二冊「労働」は新都市建設の理想を説き、第三冊は新国民建設の理想を説く者であることを。第四冊「正義」は腹稿のまゝ葬られたのであるが、蓋し新世界建設の理想を説く者であつたらうと推測せられる。

 この堺の記述によって、ゾラの「ルーゴン=マッカール叢書」の帰結が「四福音書」であり、それゆえに『ジェルミナール』に先駆けて、『子孫繁昌の話』と『労働問題』が翻訳されたとわかる。ただそれらは翻案抄訳で、登場人物は日本名に置き換えられているが、邦訳タイトルに表われているように、ゾラの『多産』と『労働』のエキスは十分に伝わってくる。
 
 なお堺は「予は仏文を読み得ず、ヴイゼトリーの英訳に依つて此篇を作つた」と付記している。今一度、『近代出版史探索Ⅵ』1189のヴィゼッテリイの翻訳」と社会主義陣営の関係を考えてみるべきかもしれない。
 
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