前回のヴィクトル・ユゴーのことだが、板垣退助が明治十年代に外遊し、その際にユゴーに会い、読むべき書物として彼の小説を勧められ、『レ・ミゼラブル』などの著作を持ち帰ったというエピソードを想起させる。
それは確か板垣退助監修『自由党史』(岩波文庫)で述べられているはずだったので繰ってみた。かつて『近代出版史探索』145において、安彦良和のコミック『王道の狗』(講談社)の参考資料に『自由党史』を参照していたからでもある。それにおそらく『近代出版史探索Ⅲ』483の村雨退二郎『明治巌窟王』、及び『近代出版史探索Ⅳ』623の山田風太郎の『幻燈辻馬車』(新潮社)に始まる「明治開化物」にしても、この『自由党史』は必須の文献資料だったと思われる。
それらのことはともかく、明治十六年六月に板垣は七ヵ月のヨーロッパの外遊を終え、帰国する。その間に「クレマンソー、ヴィクトル・ユーゴ、アコラス、スペンサー等の政治家、碩学の士と交を締し」た上での帰朝であった。『自由党史』はそれを次のように述べている。
従来欧州行を企つる者、多くは政府要路の士に就き、在野の志士と議論を上下すること希れなり。板垣の外遊は略ぼ之に反せしを以て、齎す所の者或は邦人の生聞に出づる事多し。且つスペンサー、アコラス、ユーゴ等に就て斬薪なる著書、並に英仏独の書数百巻を携へ帰り、弘く党の内外に頒ち、或は出版会社に託して翻訳せしめ、以て政論に裨補せり。
板垣に心酔していた徳富蘇峰はユゴーとの会見の内容を聞き出し、それを弟の蘆花に伝えた。すると蘆花は『思出の記』(民友社、明治三十四年)において、小説家のユゴーに「人民に自由平等の理念を吹き込むには奈何(どう)したらよからふと板垣君が問ふたら、乃公(おれ)の小説を読ますが宜いと云ふた」というエピソードを語らせている。
板垣が持ち帰った「英仏独の書数百巻」の明細は不明だが、『レ・ミゼラブル』や『ノートル=ダム・ド・パリ』が入っていたことは確実であろう。しかしそれらの翻訳は大作ゆえに困難で、森田思軒もユゴーを翻訳しているけれど、『探偵ユーベル』『懐旧』『死刑前の六時間』(『思軒全集』第一巻所収、堺屋石割書店、明治四十年)などで、『レ・ミゼラブル』には至らなかった。この一冊しか出なかったという全集は未見である。それゆえに前回の明治三十年代の堺利彦『哀史梗概』、及び黒岩涙香の『噫無情』によって、『レ・ミゼラブル』は本格的に翻案紹介され始めたといえよう。
こうした板垣とユゴーの関係はひとまず置き、あらためて『自由党史』を開いたことによって、『近代出版史探索Ⅵ』1121の五車楼から出版されたことに気づかされた。拙稿で明治四十年の五車楼蔵版『桂園遺稿』を取り上げ、この京都の老舗版元が明治末期にどうして東京に支店を設けていたのか不明だと既述しておいた。だがその理由はこの『自由党史』の出版と販売にあったのではないだろうか。
『自由党史』は明治三十三年に憲政党解党臨時大会で編纂が決定された。そして自由党をめぐる史資料の蒐集が始められ、全国各地にわたる史資料が板垣邸に集結された。同書はこの明治元年の王政復古から二十二年の大日本帝国憲法発布までの自由民権運動とその中心にあった自由党の歴史を詳細にたどった資史料集成である。その板垣の秘書的役割を務めた自由党系新聞人の宇田友猪と和田三郎によって担われた。
遠山茂樹は岩波文庫版「解説」において、『自由党史』の出版発行所が東京と京都の五車楼で、菊判、上巻七二八ページ、下巻六九〇ページ、定価はともに七円、予約募集制によっていたとし、その「著述の意図」を反映させた内容見本の発行趣旨を引用している。ここでもその最初の部分だけでも示しておく。
二十万の党衆を有し、三十年間保守的反動の勢に逆抗して、遽に立憲代議政体を贏ち得、以て我邦万世不朽の丕業を創始した自由党の歴史は成れり。其の記述する所は、悉く党員が死生の巷に往来して実地に経来りたる所の事実にして、然かも之を記述するや、極めて大胆にして毫も忌憚する所無し。明治政界の歴史は、之が為めに改訂を要請せらるべく、其活動したる人物にして、或は之が為めに意外の創疾を蒙る者ある、亦真に已むを得ざる也。則ち之を一面より見れば、自由党史は我邦の憲法史也。一点の官臭を帯びず、一毫の衒気無き、人民それ自身の憲法史也。明治政界の伏魔殿、本書により発かれたり。
さらに熱気を帯び、内容見本の発行趣旨は続いていくのだが、ここまで昂揚した内容見本の一文は読んだことがない。まさに「即ち知る、日本国民は徒らに座して自由と憲法の与へらるゝを俟つが如き無気無力の人民に非ず」ことを。この内容見本から考えても、五車楼は自由党の側による版元で、『自由党史』の出版を通じて、「明治政界の伏魔殿」を開こうと意図したのであろうか。また初版部数と出版の反響はどうだったのだろうか。
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