前回のエドワード・スペンサーと同様に、オーギュスト・コントもまた忘れられてしまった思想家であろう。それにコントの場合、森村進編訳『ハーバート・スペンサー』のような新訳アンソロジーも編まれておらず、その復権は難しいように思われる。しかし清水幾太郎を「責任編集」として『コント スペンサー』(「世界の名著」36、中央公論社、昭和四十五年)が刊行された時代まではまだ二人の影響が保たれていたのかもしれない。それを象徴するような一冊でもあった。だがここで打ち止めとなった印象も強い。
清水はその解説の「コントとスペンサー」において、大正十三年に本所区柳島元町の東京帝大セッツルメント活動に参加したことによる、武田麟太郎との出会いとコント研究の決意を語っている。そのセッツルメントは関東大震災後の救援活動のために開設され、貧しい人々のための診療所、法律相談所、消費組合、労働学校が立ち上げられ、清水は労働学校の教師となったのである。彼によれば、柳島は「当時の言葉で貧民窟と呼ばれる土地」「東京中の貧困と不潔とが結晶したような土地」だった。またそれが清水の故郷ともいえるもので、まさに「この貧民窟に私の青春があった」のだ。
前回のスペンサー『第一原理』の訳者澤田謙にしても、同時代に東京市政調査会に在籍するかたわらで、その全訳に勤しんでいたと推測されたから、澤田にしても同じ風景を目にして、スペンサーへと向かっていたのではないだろうか。かつて拙稿「下層社会、木賃宿、近代文学」(『古本探究Ⅲ』所収)で、工藤英一の下層社会レポート『浮浪者を語る』(大同館書店、昭和八年)に言及し、著者の工藤が東京市役所の浮浪者に関連する部署にいたのではないかとの推測を述べておいた。
それに戦前のコントの翻訳、研究者としての石川三四郎を加えることもできよう。石川は『近代出版史探索』74でふれているが、彼は堺利彦と同じく黒岩涙香の朝報社を経て、平民社に入り、『消費組合の話』(明治三十七年)を刊行する。大正三年には渡仏し、九年に帰国し、昭和に入ってからコントの『実証哲学』を翻訳する。これもスペンサー『第一原理』と同様に、『世界大思想全集』25、26としてで、上巻は昭和三年、下巻は同六年に刊行されている。
この春秋社の円本の『世界大思想全集』は春秋社が社史や全出版目録を出していないこともあって、把握が困難で、私も現在に至るまでその明細をつかんでいない。春秋社は『図書目録創業100年 一〇一八年度版』において、「主要刊行書目」を収録しているけれど、『世界大思想全集』に関して、当初の計画では一二三巻、昭和十年には一〇〇巻を超えていると述べているだけで、明細は示していない。『全集叢書総覧新訂版』は第一期一二六巻、第二期は二九巻予定が二四巻で中絶としている。ということは一五〇巻が刊行されたことになるわけだが、この全巻揃いを古本屋でも古書目録でも見ていない。
それは本探究で座右に置いている『日本近代文学大事典』や『世界名著大事典』にしても同様であり、言及もなければ、明細リストも収録されていない。どなたか矢口進也『世界文学全集』版を試みてくれることを願うしかない。残念ながら私は年齢もこともあり、それを手がける時間がもはや捻出できないからだ。先の目録を企画した春秋社の故澤畑吉和社長と、『世界大思想全集』のことをもう少し詰めて置けばと今になって後悔もしている。
ここでコントに戻ると、私の手元にある『実証哲学』は『世界大思想全集』版ではなく、昭和八年の「春秋文庫」版第三部、その四冊のうちの(一)(二)である。だがこの「春秋文庫」版もよく知られているとは言い難い。『実証哲学』全四冊はその第三部の「泰西名著紹介」に属し、それは「古今不朽の典籍を邦語に移して普及をはかる、換言すれば之れは日本の世界的高揚への尊い企画であらねばならない。文芸、哲学、社会科学、自然科学、等種類の如何を問はず万人必読の書を蒐め。之れを日本精神に於て摂取す。春秋文庫第三部の生命である」と謳われている。
『実証哲学』の巻末広告を見ると、第一部は「哲学・宗教・自然科学其ノ他」、第二部は「俳書詩歌類」で、第三部の本四六判と異なり、B6判である。すでに八〇冊が既刊で、『実証哲学』はただちに『世界大思想全集』の文庫化だとわかるけれど、ウエルズ、北川三郎訳『世界文化史』全六冊は拙稿「北川三郎とウエルズの『世界文化史大系』」(『古本探究Ⅱ』所収)で指摘しておいたように、昭和二年の大鐙閣普及版の文庫化だと思われる。
キャッチコピーだけだと、『世界大思想全集』を「日本精神に於て摂取す」という目的の文庫化のように映るけれど、他社からの譲受出版がかなり入っているのではないだろうか。それでも小説のオルコット、内山賢次訳『四少女』、フアラー、村山勇三訳『三家庭』などは春秋社の「世界家庭文学名著選」からの再録であるので、次回はそれにふれてみよう。
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