春秋社の「世界家庭文学名著選」ではないけれど、円本と認識されていないシリーズはまだ他にもいくつもあり、「世界文学大綱」もそのひとつと見なすべきだろう。それは大正十五年に東方出版株式会社(東方出版)から全十八巻で刊行されている。この版元は京橋区北槇町の持田汶良を発行者とするもので、その住所も同様である。ただこの持田もここで初めて目にするし、プロフィルは判明していない。
それにこの「世界文学大綱」はそのうちの『トルストイ』を入手しただけで、全巻明細はつかめず、東方出版と持田のことも不明のままであった。しかも紛らわしいことに『全集叢書総覧新訂版』にしても、全十八巻はいいのだが、東方出版社と誤記され、また同じく幾つもの円本の版元で、『近代出版史探索Ⅱ』371などの東方書院も存在していた。
ところが最近になって、「世界文学大綱」の内容見本を入手した。それは「第二回会員募集」と記載されているものなので、刊行が進む中にあって、再び会員が募られたことを意味していよう。その表紙にはサブタイトル的に「文豪/生活・芸術・思想・傑作梗概」という内容を示す文言がそえられている。それによってこの「世界文学大綱」が従来の『世界文学全集』ではなく、「世界文学者」の評伝と主要作品の「梗概」を内容とすることがわかる。それは三〇ページに及び、その最初に第一回会員名簿の一部が掲載され、「高松宮殿下御買上」を筆頭とする五十人ほどのリストが目に入る。
(内容見本)
それらの人々は会社の社長や重役も多く、「本叢書が知識階級は勿論、時代の進運に遅れざらんとする向上心の強い知識欲の盛な士女間に異常な歓迎を博した」事実を伝えようとしているのだろう。思わず「世界文学大綱」は所謂「リーダース・ダイジェスト」というコンセプトで企画されたのではないかとの推測も浮かんでくる。その次には恩地孝四郎装幀による全巻の写真が示され、「諸賢の書斎をして世界の大芸術家大思想家と談る殿堂たらしめんことを」というコピーも見える。そして「刊行の趣旨」が「時代は革つた」と始まり、「現代には予言者は生れない。『野に叫ぶ声』は永遠に物質文明の機械的騒音の裡に葬られた。然らば吾人は何処に予言者の声を聞き、誰によつて洗礼を求むべきか。たゞ文学あるのみである」と謳われている。
大正末期においては昭和円本時代と異なり、「世界文学」はまだ大衆に向けて解放されておらず、そのような聖なる座に据えられていたことになり、しかも「世界文学大綱」の目的とするものはその人物と作品の「梗概」を通じて、「予言者」に他ならない天才文学者たちの声を聞くことにある。なぜならば、「現代人は常識としても修養としても世界の文芸及び思想に通暁するの要」に迫られているからだ。
そのようにして、実業界の人々が「世界文学大綱」の第一回会員として加わることになったのであろう。しからば、その明細を著者とともに挙げてみる。
1 竹友藻風 | 『ミルトン』 |
2 田中玉堂、守田有秋 | 『カアライル・エマアスン』 |
3 高原延雄 | 『ウィリアム・シェークスピア』 |
4 日夏耿之介 | 『ジョン・キーツ』 |
5 吉江喬松 | 『ボオドレエル』 |
6 辰野隆 | 『ボオドレエル』 |
7 山田珠樹 | 『スタンダアル』 |
8 井汲青治 | 『サント・ブウヴ』 |
9 堀口大学 | 『ヴェルレエヌ』 |
10 中村吉蔵 | 『イプセン』 |
11 青木昌吉 | 『ゲエテ』 |
12 高橋健二 | 『シルレル』 |
13 篠田英 | 『レッシング』 |
14 濱野修 | 『クライスト』 |
15 八木貞利 | 『プーシキン』 |
16 米川正夫、除村吉太郎 | 『レフ・トルストイ』 |
17 森田草平、倉田潮 | 『ドストエウスキイ』 |
18 江部鴨村 | 『タゴール』 |
(『ヴェルレエヌ』)
3の高原延雄は本探索1215の『世界文豪全集』のシェークスピアの訳者、10の中村吉蔵も同様だし、17の森田草平は『近代出版史探索Ⅵ』1195などの国民文庫刊行会の「世界名作大観」の訳者だったことからすれば、これらの大正末期から昭和初期にかけてのインディーズ出版社の世界文学=外国文学にまつわる企画は訳者だけでなく、発行者、編集者人脈も必然的に重なり、次々と刊行されていったように思われる。
「世界文学大綱」も予約出版特有の「非売品」扱いだが、四六判天金上製六〇〇ページ、一冊当たり三円五十銭で、順調に予約者が集まれば、その予約金は先払いであり採算部数を低く設定し、読者直販が多かった場合、それなりの実売成績を収めたとも考えられる。それにこうしたコンセプトによるシリーズ、類書もまだなかったはずだ。
「世界文学大綱」のうちで手元にある16の『トルストイ』の内容を具体的に見てみると、それは評伝といっていいし、ほとんどがそれで占められ、『戦争と平和』の「梗概」と著作年表は付録のように巻末にある。おそらく他の巻にしても同様であろうし、それもかえって好評だったかもしれない。この時代にあって、拙稿「鶴田久作と国民文庫刊行会」(『古本探究』所収)で示しておいたように、『戦争と平和』は馬場孤蝶訳の国民文庫刊行会の「泰西名著文庫」四巻本、「世界名作大観」三巻本があったわけだから、その一四〇ページばかりの「梗概」は、予約者たちにとっても、「世界の文芸及び思想に通暁する」ために時宜を得ていたともいえるのではないだろうか。
しかしそこで問われるのは、真の著者は誰かという問題であろう。4のジョン・キーツは『日夏耿之介全集』(河出書房新社)に見当らないし、それは5の『ギュスタヴ・フロベエル』も『近代出版史探索Ⅳ』800の『吉江喬松全集』においても同様なのだ。つまり六〇〇ページを超える単著として刊行されながらも、全集に収録されなかったのは、実際に日夏や吉江の著作でなく、代作者がいたことを示唆していよう。
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