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古本夜話1234『黒死館殺人事件』を戦地へと携えていった青年は誰か

 『ドグラ・マグラ』といえば、やはり同年の昭和十年に新潮社から刊行された小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』を想起せざるをえない。それに『黒死館殺人事件』も同じく沖積舎から平成二年に覆刻版が出ているのである。

f:id:OdaMitsuo:20220117160415j:plain:h120(沖積舎版)f:id:OdaMitsuo:20220119151201j:plain:h120(新潮社版)黒死館殺人事件 (沖積舎版)

 拙稿「黒死館と図書室」(『図書館逍遥』所収)でも書いているけれど、中学時代に「ハヤカワ・ポケット・ミステリ」の目録を見ていて、その中に翻訳ではない『黒死館殺人事件』『ドグラ・マグラ』、それに浜尾四郎『殺人鬼』があることに気づいた。だがすでに品切で、入手できず、実際に読んだのは昭和四十四年に桃源社から「大ロマンの復活」シリーズの一冊として復刊されたことによっている。

図書館逍遥 黒死館殺人事件 (ハヤカワ・ミステリ 240) ドグラ・マグラ (ハヤカワ・ミステリ 276) 殺人鬼 (ハヤカワ・ポケット・ミステリ 195 世) f:id:OdaMitsuo:20220119153134j:plain:h135(桃源社版)

 その「解説」は自らそれを書くことを望んだ澁澤龍彦の手になるもので、『黒死館殺人事件』が「キリスト教異端やオカルティズム文学の伝統の全く存在しない日本に、本格的なオカルティズム小説を打ち樹てるという、まさに空中楼閣の建設にもひとしい超人的な力業の結晶であった」と絶賛している。そして江戸川乱歩の『探偵小説四十年』(講談社)におけるひとつのエピソードを示しているけれど、ここでは乱歩の証言を直接引いてみる。

江戸川乱歩全集 第28巻 探偵小説四十年(上) (光文社文庫)

 私の知っている或る探偵小説愛好家で、昨年来召集せられて戦地(シナ)へ出かけた人があるが、その人はただ一冊、すでに幾度も読み返した「黒死館殺人事件」を背囊の中に入れて行ったということを聞いている。この人にとって探偵小説「黒死館」は恐らく「聖書」に似た意味を持っていたのである。

 ちょうど半世紀前に澁澤のこの乱歩の伝えるエピソードも含んだ「解説」を読み、澁澤のいうところの「この奇特な青年」とは誰なのかが気になっていたのだが、最近になってようやく判明した。しかも本探索で既述しておいた人物だったのである。それは『近代出版史探索』84の花咲一男に他ならなかった。やはり同67で、ヴォルテールの三谷幸夫訳『オダリスク』(操書房)の花崎清太郎宛献本を入手したことにふれておいた。この三谷は乱歩の親戚の松村喜雄のペンネーム、また花崎は花咲一男の本名でもあった。

 二人は東京株式取引所に勤めていた同僚で、花咲はもう一人の同僚石川一郎とともに松村に連れられ、乱歩と親しくなる。そして花崎は探偵小説だけでなく、乱歩の土蔵の同性愛文献に触発され、梅原北明たちの出版物や風俗物の収集に励むことになる。そして戦後になって花咲の名前で、近世風俗研究会を主宰し、江戸時代のポルノグラフィなどを出版するのである。また花咲には『雑魚のととまじり』という私家版自伝も出されているので、いずれ入手できたらと思っているうちに、長い年月が流れてしまった。

雑魚のととまじり (幻戯書房)

 そして近年になって股旅堂の古書目録が届き、そこに『花咲一男翁しのぶ艸』が掲載されていたので、そうか亡くなったのかと思い、注文すると、幸いなことにすぐに届いた。同書は平成二十三年に太平書屋編として「花咲一男略年譜、著作目録・近世風俗刊行会刊行書目」を付したA5判、一二八ページの一冊で、「四百部印行の内二百部は関係者用非売品」のかたちでの刊行である。

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 私は花咲の仕事に通じているわけではないし、彼の著作も数冊しか読んだことがない。しかしその「著作目録」を見ると、いくつもの個人版元、有光書房、三樹書房、太平書屋、岩崎美術社などとコラボレーションし、江戸風俗に関する多くの著作を刊行していることを教えられた。その仕事へのオマージュのようにして、二十八人の「しのぶ艸」が寄せられ、そこに浜田雄介の「江戸川乱歩と花咲先生」もあった。浜田は乱歩研究者で、乱歩邸の立教大学への譲渡が決まり、その土蔵に通って仮目録を作成していた。その時に乱歩と花咲が書棚の中にあって本を手にして語り合っている姿を想像したこともあり、乱歩のことを聞くために、花咲を訪問することになった。

 その時、花咲の話を聞いて驚いたのは、「従軍する際に『黒死館殺人事件』一冊を持って戦地に向かった青年」は他ならぬ花咲だったという事実である。「花咲一男略年表」を見ると、昭和十年十九歳で松村の案内で乱歩邸を訪れている。乱歩は同年四月七日付で、『黒死館殺人事件』に「序」を寄せているし、その発売は五月だったから、それ以前にしても以後にしても、当然のことながら『黒死館殺人事件』は話題になったはずだし、それから何度も読んだと思われる。

 そして花咲は昭和十三年九月に召集され、十四年には中国へと向かっている。この時代に花咲は戦地へと『黒死館殺人事件』を携えていき、澁澤を始めとして、小栗や探偵小説愛好者を感激させたエピソードを残したことになる。

 それらのことを考えながら、「江戸川乱歩探偵小説蔵書目録」である、新保博久、山前譲編著『幻影の蔵』(東京書籍、平成十四年)を覗くのは感慨深い。

幻影の蔵―江戸川乱歩探偵小説蔵書目録


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