佐藤春夫の『李太白』という短編集がある。大正十三年に発行者を面家荘佶とする赤坂区青山南の而立社から、『歴史物傑作選集』の一冊として刊行されている。これはタイトルの「李太白」を始めとする佐藤の「歴史物」八編を収録したものだが、その巻頭に「編者識」として「歴史物傑作選集に就いて」が置かれ、次のような文言がしたためられている。
明治の末期より澎湃として押し寄せ来つた欧米の新思潮は、大正の初めに当つて具体的に文学の上に現はれた。大正に入つてから我国の文学は全然その姿を新たにしたと言へる。従つて歴史の中に題材を取つた所謂歴史物にも、その影響の顕著なるを見る。これこゝに選する所の、新らしい態度に依つて、新らしい立場に依つて作られた歴史物の誕生を見るに至つた所以である。
それに加え、「歴史は我々の精神の郷土ある」ゆえに、「現文壇の主要作家は何れも新生面を歴史中に求め」たことによって、「現文壇の傑作の多くは歴史物の中に存する」ことになり、ここに『歴史物傑作選集』が生まれたと述べている。確かに大正時代に入ってから外国文学や思想の翻訳の驚くべきほどの増加は本探索もたどってきたとおりだ。ただ「現文壇の傑作の多くは歴史物の中に存する」との見解は詳らかにしないし、巻末に挙げられた『歴史物傑作選集』のリストを見ても、肯うわけにはいかないように思う。
それを挙げてみる。
1 | 菊池寛 | 『名君』 |
2 | 芥川龍之介 | 『報恩記』 |
3 | 長与喜郎 | 『エピクロスの快楽』 |
4 | 武者小路実篤 | 『釈迦と其弟子』 |
5 | 佐藤春夫 | 『李太白』 |
6 | 上司小剣 | 『西行法師』 |
近刊、「題未定」として、山本有三と谷崎潤一郎の名前が続いているけれど、それらは出なかったようだ。
この『歴史物傑作選集』は紅野敏郎『大正期の文芸叢書』にも見出され、2の芥川の『報恩記』の書影が掲載されている。これを見ると、『李太白』もまったく同じ装幀で、装幀者は不明だが、紅野のいう「表紙中央に表題、その周辺を濃い茶とか朱に近い色、あるいは水色の意匠で包み込んでいる」のである。紅野は『歴史物傑作選集』に関して、「まことに時を得た企画」だと持ち上げているけれど、発行者の面家については「きわめて珍しい姓で、どのように読むのが正しいのか、またその経歴などについては、いまのところお手あげの状況である」と述べている。
『近代出版史探索』172で、面家が大鐙閣の東京支配人にして、大正八年の『解放』創刊を推進した人物であることを指摘しておいた。近代文学館の講談社による複刻『解放』創刊号を見ると、面家の名前は出てこないけれど、この雑誌が執筆者名から考えても、吉野作造、福田徳三、麻生久たちの黎明会、及び赤松克麿、佐野学といった東大新人会のメンバーによって担われていたとわかる。またその出版広告から、福田徳三序、高畠素之訳、カウツキー原著『マルクス資本論解説』なる一冊が売文社出版部から出されていたこと、また黎明会編輯の月刊誌『黎明講演集』が大鐙閣から刊行されていたことを教えてくれる。本探索1221でふれておいたように、ゾラの飯田旗軒訳『巴里』と『金』の発行者は面家でもあり、そうした出版人脈と環境の中に置かれていたことを証明していよう。
(『巴里』)(『金』)
それに加えて、雑誌奥付から、『解放』が東京堂、東海堂、北陸館、上田屋、良明堂という当時の六大取次の取引口座を有していたこともわかり、これも面家の裁量によっていたのかもしれない。しかしこれも『近代出版史探索Ⅲ』573で記しておいたように、福田徳三の意向で大鐙閣に高畠訳『資本論』出版企画が持ちこまれ、大正九年に第一冊が出されている。だが十二年の関東大震災によって大鐙閣も罹災し、出版事業の断念へと追いやられた。そこで面家が而立社を立ち上げ、『資本論』の続刊を引き受け、大正十三年に全十冊の完結を見たのである。
(大鐙閣)(新潮社)(改造社)
もちろん高畠訳『資本論』だけで而立社がやっていけるわけではないので、文学企画としての『歴史物傑作選集』も立ち上げられたと思われるが、それ以後が出なかったように、而立社も行き詰まってしまったと推測される。それは大正十四年に新潮社から高畠訳『資本論』全四巻が刊行されたことからもうかがわれる。だが面家と而立社を抜きにして『資本論』全訳は語れないだろうし、それは昭和二年の改造社の全五巻も同様であろう。
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