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古本夜話1249 池田みち子『無縁佛』

 『金星堂の百年』において、「編集部員は文学青年、文学少女」という見出しで、本探索1238の松山敏だけでなく、当時の他の編集者についてもふれられ、次のように記されていた。

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 のちに作家となり戦後は「肉体派の風俗作家」などと呼ばれた池田みち子も、常勤ではないが短期間編集の手伝いに通っていた。彼女も京都出身で、本名は中島千代子。当時は20歳前の文学少女で、菊池寛を頼って上京し、菊池寛の自邸に家事見習いで住み込んでいた。「いつまでも家へ置いておくわけにもいかないから、編集見習いとして使ってくれないか」と菊池自身から福岡へ相談があったのだという。

 それに加えて、金星堂と関係があるのかは不明だが、後に彼女は伊藤整の教え子となっている。それを知ったのは八切止夫『寸法武者』(作品社、平成十四年)の大村彦次郎の「解説」によってである。大村はそこで指摘している。昭和十年前後の日大芸術科は現在の江古田にはなく、本郷金助町にあった第一外国語学校の古びた校舎の一部を借りていた。その講師には若い伊藤整や福田清人などがいて、作品批評や創作実習を教え、その学生たちの中には後に作家となる八切の他に池田みち子、十返肇、八匠衆一、堀川潭などがいたと。
 
寸法武者 (八切意外史)

 この際だから『日本近代文学大事典』における池田の立項も引いてみる。

 池田みち子 いけだみちこ 大正三・四・一〇~平成二〇・一・七(1914~2008)小説家。京都府生れ。日本大学芸術家科卒。日本写真公社に勤務、かたわら「三田文学」等に習作を発表してきたが、戦後は筆一本で立つべく体当たりで書いた『醜婦伝』(「中央公論文芸特集」昭二五・一一五号)で注目され、おりから台頭の中間小説雑誌に迎えられるところとなり、いわゆる肉体派の風俗作家として脚光を浴びた。主著『黒い手』(昭三五・七、筑摩書房)『山谷の女たち』(昭四二・一〇、現文社)がある。

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 池田は『近代日本社会運動史人物大事典』にも立項が見えるので、それによって補足すれば、昭和五年に解放運動犠牲者救援会から改称された日本赤色救援会に池田は属し、何回かの検束もひるまず、献身的に活動したとされる。これらのことをリンクさせると、池田は金星堂などの編集仕事を経て、左翼救援活動に従事した後、日大芸術科に入り、その後働きながら同人誌などに作品を発表し、戦後は「肉体派の風俗作家」として、それなりに著名になっていたのである。

近代日本社会運動史人物大事典

 そのような池田のプロフィルや経歴をほとんど知らずに彼女の『無縁佛』(作品社)を入手し、読んでいる。それは奥付に発行者が寺田博とあるように、彼が河出書房新社を退職し、作品社を興し、昭和五十五年に文芸誌『作品』を創刊する一方で、多彩な文芸書を刊行し始めていて、池田の作品もまたそれらの一冊だった。確認してみると、それは五十四年初版、五十六年第二刷で、帯には「第九回平林たい子賞受賞作」とあり、それが重版の要因のように思われる。その上の帯文は「娼婦、土方、露店商、パチ・プロたちとともに山谷・ドヤ街に住みつき、今日を生きるために今日働く切羽つまった暮らしのなかで、生きることの自由と怯懦を等身大の眼で凝視した、異色の連作小説集!」とあった。

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 あらためて四十年ぶりに巻頭に置かれた表題作の「無縁佛」を読んでみると、この作品の始まりの時代背景が「東京オリンピックを三年後に控え」、「赤線が廃止になって確か三年目だった」とされているので、昭和三十六年であり、現在から考えれば、六十年前、それも山谷の簡易宿泊所=「ドヤ」の生活を描いていることになる。語り手の「私」は作家だが、地方新聞に十二枚のコント風の読切連載があるだけで、この仕事だけが唯一の収入源だった。だが気乗りのしない小説は読者の評判も芳しくなく、文学への野望もくじけ、仕事への自信も失い、投げやりな日々を過ごしていた。そんな「私」にとって、「ドヤは住みよい場所」で、「絶えず入れ代る女たちの生態、土方たちの様子を見たり聞いたりできるのは面白く、見知らぬ土地をひとりで旅するに似て、たいくつせずにいられた」のである。女部屋には「私」の他に、「デコ」と呼ばれる皴婆さん、「茨城」というパチ・プロ、娼婦の「雪」などがいた。「デコ」は七十すぎと老けて見えたが、まだ五十そこそこで、「玉の井の淫売よ、若い頃身体を使って荒稼ぎしたから老けるが早いのさ」との風評だった。

 それから四年後、「私」は再び山谷のドヤ街に泊り、急ぎの仕事に取り組んでいたが、夕食に出ると、土方から声をかけられた。それは「デコ」の男の金杉で。彼女がそうよばれるのは名前が「秀子」だからだとわかるし、それが高峰秀子に由来しているのはいうまでもないだろう。彼女は病気の身をドヤで、金杉にめんどうをみてもらっていたが、「私」を見ると「馬鹿野郎」「ど淫売奴!」とどなりつけるのだ。「私」はうさばらしの酒を飲みながら、金杉は彼女を棄て、蒸発すると思った。

 さらに二年後、「私」は山谷の玉姫公園で、お好み焼きを売っている「デコ」を見た。それを焼いているのが亭主のようだったが、忘れてしまったのか、「私」には気づかなかった。それからしばらくして、「私」は「デコちゃんが殺された」話を聞く。土方と喧嘩して撲られ、救急車の中で死に、無縁佛となったという。「私」が会った日に殺されたかもしれないのだ。これが山谷の高峰秀子=「デコちゃん」の物語ということになろう。

 このような『無縁佛』を読むと、戦前のプロレタリア小説、もしくは林芙美子の『放浪記』などを想起する一方で、現地に住み込んで書くもう一人の女性作家の藤本泉を思い出す。彼女も日大出身で十歳近く年下だが、池田と交流があり、影響を受けていた可能性も否定できないように思われる。

放浪記 (新潮文庫)

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