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出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1250 吉田一穂『海の人形』と金井信生堂

 『金星堂の百年』が出されたことは近代出版史や文学史にとって幸いだったが、全出版目録が収録されていないのは残念の一言に尽きる。それは金星堂の戦前の出版物の収集が困難であることを象徴していよう。紅野敏郎にしても『大正期の文芸叢書』(雄松堂出版)の中で、「金星堂名作叢書」「随筆感想叢書」「先駆文学叢書」「社会文芸叢書」を取り上げ、これらのうちでも「金星堂名作叢書」全三十三巻は「大正文学研究上不可欠」だが、「集めにくいシリーズのなかの有力なもの」だと述べているからだ。

f:id:OdaMitsuo:20200304175256j:plain:h125 大正期の文芸叢書

 実はこれらの叢書だけでなく、金星堂はこの時代に童話や詩集も刊行していて、それらのことは『金星堂の百年』には記されていない。その代表的なものは吉田一穂の童話集『海の人形』(大正十三年)、及びその第一詩集『海の聖母』(同十五年)である。

 f:id:OdaMitsuo:20220216204149j:plain:h125 (『海の人形』) f:id:OdaMitsuo:20220216210022j:plain:h125(『海の聖母』)

 吉田一穂のことは昭和四十年代後半の記憶と結びつく。当時仮面社からカラフルな三巻本の全集が出ていたが、高くて買えなかったこと、その息子の吉田八岑の図書館学講座を受講したこと、それと相前後して中央公論社版『日本の詩歌』所収の『海の聖母』などを読んだことだ。これらを補足すれば、いつの間にか仮面社版は見えなくなり、その後小沢書店版が刊行されたことも承知しているが、現在に至るまで古本屋でも出会えず、入手していない。それでも八岑が本当は詩人になりたかったと語っていたことは覚えているし、これも思いがけずに拙著『〈郊外〉の誕生と死』において、一穂の『海の聖母』の「母」の冒頭の「ああ麗(うる)はしい距離(デイスタンス)/常に遠のいてゆく風景・・・・・・」をエピグラフとして引用している。

f:id:OdaMitsuo:20220216211023j:plain:h120(『日本の詩歌』21)〈郊外〉の誕生と死

 それらに加えて、『海の人形』のほうは昭和五十一年に学藝書林から復刻されたので、入手している。そこには八岑による「あとがき」といっていい「『海の人形』のこと」が付され、それによれば、一穂三回忌に合わせ、刊行されたようだ。これは武井武雄のカラーの装幀表紙、及び扉絵、モノクロ挿絵からなり、造本、組版ともに新しい童話の出版の試みを彷彿とさせる。そのことを示すように、「序」において、「私は『美しい伝説』を作る」と始まり、次の言葉へと続いていく。

 童話とは、筋書風な娯楽本位のお伽噺ではなく、また諷刺や譬喩(たとえ)の概念様式でもない。それは麗しい情操の揺籃、夢と祈り、その自らなる伝説を描く詩人の幻想(ビション)に外ならない。

 この後には「片上伸氏の慫慂の言を受け、原掬水氏の好意によつて書き、且つ発表して今日に至つた」とある。『日本近代文学大事典』において、一穂は大正七年に早大英文科に入り、同人誌に短歌を発表し、片上に認められたと述べられているが、原の名前は出てこないし、その立項も見当らない。

 だが『日本近代文学大事典』には原は立項され、彼は大正元年にやはり早大英文科を卒業し、同級の松山思水、渋沢青花とともに実業之日本社に入社し、『日本少年』、及び大正八年創刊の『小学男生』『小学女生』の編集に携わっている。おそらく『海の人形』所収の十三編の「童話」は主としてこれらの二誌に発表されたのではないだろうか。それらを確認するために『実業之日本社七十年史』を繰ってみたが、原の写真は二ヵ所に見出されるけれど、一穂に関する記述はなされていなかった。

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 吉田一穂の『海の人形』をめぐって、『金星堂の百年』と『実業之日本社七十年史』をたどってきたが、原掬水という編集者のことはともかく、一穂の金星堂からの童話と詩集の出版の手がかりはまったくつかめない。しかし『金星堂の百年』の参考文献として挙げられている拙著『古本探究Ⅲ』所収の「知られざる金星堂」で既述しているように、金星堂は赤本と取次を兼ねる上方屋から始まり、文芸書出版へと展開していったこと、それらの赤本と取次が児童書や「立川文庫」を中心としていたことは『海の人形』の出版と無縁でないように思われる。

古本探究〈3〉

 なぜならば、一穂は昭和十五年から十九年にかけて、金井信生堂において編集長を務め、童話集『ぎんがのさかな』(昭和十五年)を刊行し、他にも絵本童話『ヒバリハソラニ』(帝国教育会出版部、同十五年)、童話集『かしの木と小鳥』(同十九年、フタバ書院)も出版し、それらは金星堂と『海の人形』の系譜にリンクしているのではないだろうか。

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 その金井信生堂の創業者が鈴木徹造『出版人物事典』に見出せるので、それを引いてみる。

出版人物事典―明治-平成物故出版人

金井直三 かない・なおぞう】一八七八~一九五二年(明治一一~昭和二七)金井信生堂創業者。中学中退後、木版の版木屋から石版印刷屋に転じた長兄の仕事を習った後、一八九五年(明治二八)独立、金井信生堂を興こし、次第に絵本出版を主体とし、五銭、一〇銭の絵本を多数販売した。鏑木清方、河合英忠など日本画家を多く起用、なかでも清方の女子作法の絵解き『女礼式』などが評判を生んだ。東京地本彫画営業組合に属し、一九三九年(昭和一四)三月、日本児童絵本出版協会結成に尽力した。四三年(昭和一八)日本出版文化協会の解消に際し、清算人をつとめた。

 ここで挙げられている「五銭、一〇銭の絵本」こそは赤本に他ならず、「東京地本彫画営業組合」は全国出版物卸協同組合の前身である。また日本児童絵本出版協会は内務省図書課による児童文化統制の際に、東京の赤本業者たちが立ち上げた同業組合で、その中心となったのは金井の息子の金井英一だった。このような赤本業界の戦時下の推移の中で、吉田一穂を始めとする文学者たちが絵本や児童書の世界へと召喚され、生息していたにちがいない。だがその詳細は定かでない。


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