本探索1247でふれた数次に及ぶトルストイブームはともかく、その立役者ともいえる徳富蘆花の明治時代におけるベストセラー作家としての人気に関しては、私などの昭和の戦後世代にとって、実感を伴うことは難しい。それに現在でも岩波文庫で読めるにしても、一部の近代文学研究者を除いて『不如帰』や『思出の記』(いずれも民友社、明治三十三、三十四年)の読者がいるとは思われない。
ただそうはいっても私の場合、近代出版史や郊外論との関係もあって、『近代出版史探索Ⅱ』285で蘆花と福永書店『富士』、『同Ⅴ』807で金尾文淵堂『日本から日本へ』の出版を取り上げているし、『自然と人生』や『みみずのたわごと』に言及した「東京が日々改め寄せる」(『郊外の果てへの旅/混住社会論』所収)を書いている。
それらのことに加えて、たまたま昭和四年の円本時代に刊行された新潮社の『蘆花全集』全二十巻のうちの六冊を拾っている。これはまったく偶然だが、そこには明治二十年代の人物伝『トルストイ』(第四巻所収)、トルストイ訪問の旅『順礼紀行』(第七巻所収)という第一次トルストイブームのベースとなった蘆花の著作も含まれていたのである。だがこれらに言及する前に、佐藤義亮「出版おもひ出話」(『新潮社四十年』所収)において、「『蘆花全集』の出るまで」が語られているので、まずはそれを見てよう。
(第9巻、『みみずのたはごと』)
佐藤は三十五、六年前の古い話から始め、「『不如帰』が出た時、例によつて読書界に甚だ不人気な人なので一向に評判にならなかつた」と述べ、それを初めて「激称礼讃」したのは『万朝報』の堺枯川、いうまでもないが、本探索1217の堺利彦、『新声』の佐藤だったと書いている。さらに「恐らく作品のほめられた味を知らずに来た蘆花氏にとつて、これは嬉しかつたに相違ない」と続け、遊びにくるようにとの葉書をもらったことにもふれている。これは昭和十年頃になっての回想だが、明治三十年代には蘆花が民友社や『国民之友』『国民新聞』などによっていた著述家、翻訳者であっても、まだ小説家として認められておらず、「読書界に甚だ不人気な人」だったことが示唆され、後のベストセラー作家の当時の実相を教えてくれる。
それも現在でも変わっていないけれど、いつの時代もベストセラーとは前史における兆候や積み重ねというよりも、ある日突然出来することを伝えていよう。今となっては『不如帰』が明治後半の尾崎紅葉『金色夜叉』と並ぶベストセラーだったことは忘れられていようが、それが新潮社と晩年の全集出版とリンクしていったことはいうまでもないだろう。佐藤が『金色夜叉』にもこだわり、小栗風葉に『続編金色夜叉』を書かせたのは『近代出版史探索』167で既述しておいたとおりだ。佐藤は昭和六年の蘆花邸での全集完了記念会の写真を示し、次のように述べている。
(『続篇金色夜叉』)
出版については賀川豊彦氏を煩はしたこともあるし、沖野岩三郎氏には、編輯主任として、外の全集に見られない様々の面倒を見てもらつた。蘆花氏との旧い関係上、福永書店と表面、共同出版のやうになつてゐたが、事実は新潮社が全責任を負うてやつた仕事である。予約ものとして出版的に成功したが、ある事情で経済的には相当大きな損失だつた。(これは徳富家の関知しないことだが)
この福永書店に関しては先述の拙稿を参照してほしいが、賀川や沖野も蘆花と同じく福永書店から著作を刊行しているので、新潮社の『蘆花全集』編纂に参画することになったと推測される。またこの全集の「ある事情」による経済的大損失とは、かなりの予約部数は確保したものの、全二十巻に及ぶ全集のための他社からの版権取得に、予想外の多大な負担が生じたことを意味しているのであろう。
『蘆花全集』出版事情に関して長くなってしまったが、トルストイにもふれなければならない。だがそれは評伝の『トスルトイ』ではなく、『順礼紀行』(警醒社、明治三十九年)のほうを取り上げてみる。そこには口絵写真として「著者とトルストイ翁及令嬢アレキサンドラ(トルストイ夫人撮影)」も掲載されているからだ。また横浜港を出港し、エジプト、エルサレム、ガラリア、バルカン半島を経て、ロシアへと至る「行程略図」、「橄欖山より見たる今のエルサレム」の俯瞰写真も収録され、明治末期の日露戦争後の世界旅行といえるトルストイ訪問の実際がリアルにレポートされているからでもある。それゆえに先述の大正八年の『日本から日本へ』に描かれた蘆花夫妻の世界一周の旅とは内容も趣も異なっている。
(『蘆花全集』第4巻『トスルトイ』)(警醒社『順礼紀行』)(中公文庫)
『順礼紀行』におけるトルストイ訪問は五〇ページに及ぶ最も長い「ヤスナヤ・ポリヤナの五日」として語られている。蘆花は訪問に先立ち、自著『トルストイ』に添え、「生は久しく先生に一書を呈せんとして躊躇致し候ひき。先生の文学的著作は生の嗜読せし所、先生の文学的天才と真摯熱誠の心霊は生の嘆美し敬慕せし所に候」云々との書簡を送っている。
そしてようやくトルストイの家のある駅にたどりつき、馬車でその家へと向かい、彼に対面することになる。「翁の顔を見れば、顔の色は紅を帯びたけれど、髪髯灰白の色となりて、眼少しうるみ、歯ぬけ、思ふにまして老ひたり。翁は満七十八なり」。それでも「白つぽきフランネルのだぶゞゞしたる着物に、黒き革の帯して、縁広の白き夏帽をかぶり、自然木のステツキをつきたる姿は何処までも画に見文読みたる其のまゝの翁也」で、それは『トルストイ研究』第一号の表紙に使われた「画」、もしくは写真「其のまゝの翁」の姿に他ならなかったのである。
(『トルストイ研究』)
そうしたトルストイ一家と過ごした「ヤスナヤ・ポリヤナの五日」が語られていくのだが、その詳細を知るために『順礼紀行』を読んでもらうしかないだろう。
それからほぼ一世紀の平成二十二年に新潮文庫からジェイ・パリーニ『終着駅―トルストイ最後の旅』(篠田綾子訳)が出され、映画化もされ、こちらもDVDで観ている。同書は晩年のトルストイと妻の物語であると同時に、彼の名のなき駅の片隅での謎の死の真相に迫っている。その映画のカラー場面を観ていて、思わず『順礼紀行』もトスルトイ夫妻のモノクロ写真が一ページ掲載されていたことを想起してしまったのである。
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