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古本夜話1257 壺井繁治『激流の魚』と『戦旗』経営

 本探索1253で戦旗社の出版流通と販売に関して、『近代出版史探索Ⅲ』645で既述していることにふれたが、それは「総合ヂャーナリズム講座」における壺井繁治の証言をベースにしている。『日本近代文学大事典』の『戦旗』の解題においても、それらは言及されているけれど、おそらくその言及は昭和四十一年刊行の『激流の魚 壺井繁治自伝』(光和堂)によっていると考えられる。

激流の魚―壷井繁治自伝 (1966年)  

 壺井のことはかつて拙稿「南天堂と詩人たち」(『書店の近代』所収)で取り上げているけれど、ここで簡略にプロフィルと『戦旗』に至るまでをたどってみる。彼は明治三十年香川県小豆郡生まれ、早大英文科中退、大正十二年に萩原恭次郎、岡本潤、川崎長太郎と詩誌『赤と黒』を創刊し、アナキズム詩人として作品を発表する。十四年には同郷の岩井栄と結婚し、世田谷町太子堂の長屋に住んだが、そこには林芙美子や平林たい子も暮していた。『近代出版史探索』60で既述しておいたように、林は野村吉哉と同棲していたし、それは『激流の魚』にも描かれている。

書店の近代―本が輝いていた時代 (平凡社新書)

 壺井は昭和二年にアナキズムと決別し、三好十郎たちと左翼芸術同盟を結成し、『左翼芸術』を創刊し、ナップに参加し、四年には日本プロレタリア作家同盟創立大会で中央委員に選ばれ、以後マルキシズム文学によって『戦旗』の発行、経営、出版事業に専念することになる。それは『激流の魚』のⅡの「最初の入獄」の章に詳しいので、その記述を追ってみる。

 昭和四年に壺井が『戦旗』の発行と経営の仕事を引き受けることになったきっかけは、中野重治と『戦旗』の直接読者網の責任者宮本喜久雄の要請によっている。それは「四・一六」事件などの『戦旗』に対する弾圧や『戦旗』の独立問題も絡んでいたようだ。壺井は書いている。


 「戦旗」は七千部の創刊号から出発し、(中略)一九三〇年一月号は二万二千部に達した。この間臨時増刊号を加えると二十六冊を重ねたが、そのうち発禁となったのは合計十三冊で、隔月一冊の割り合いとなっている。このことだけ見えても「戦旗」に加えられた弾圧が、どんなに激しかったかが解かるであろう。それにもかかわらず右にのべた弾圧に逆比例して、発行部数は上向線を辿る一方であった。「戦旗」がなぜこんなに発展したかといえば、支局配布網(直接配付網)に組織された革命的労働者・農民・知識層その他の強力な支持によるものだが、一面から考えると当時非合法の共産党がまだ独自にこの種の大衆的な啓蒙雑誌を持つだけにいたらず、文化運動の領域で、「戦旗」がそれを代行していたようなところがあり、ある場合そこから極左的な政治主義の偏向も生まれたが、とにかくこの雑誌を自分たちの雑誌として内部から強く支える革命的エネルギーが大衆の間にみなぎり、それがこの雑誌にたいする絶え間ない弾圧をはね返えす原動力となったわけだ。

 戦前の出版法によれば、雑誌の発売の三日前に内務省警備局図書検閲課へ二部納本し、安寧秩序妨害や風俗壊乱、政体変壊や国憲紊乱と見なされた場合、発禁処分となるはずだったが、『戦旗』は検閲課へ納付しないうちに、内務省から全国の警察に向かって発禁処分が出されるようになった。つまり『戦旗』は壺井のいうところの「合法雑誌」であるにもかかわらず、「非合法雑誌」という扱いを受けたのである。そのために製本段階での押収の危険に見舞われ、製本屋を分散し、絶えず新しい製本屋を開拓する必要が生じた。

 また発禁処分で最も被害が多かったのは取次から書店へ至る流通ルートで、書店によっては発禁を承知で数部だけを押収させ、あとは売れてしまったと隠し、信用のおける読者にだけ売るところもあったようだ。しかし『戦旗』が存続できたのは取次・書店ルートよりも、「支局配布網(直接配布網)」のほうが全発行部数の六〇%を占めていたからだった。「直接配布網は完全に非合法化されたアジトに保管の名簿を通じて、直接読者に雑誌が発送される仕組みになっていて」、「この直接読書網の拡大に最大の力を傾け」ていたのである。

 そうした流通販売網と多彩な読者もあってか、松本清張も『半生の記』(河出書房新社)で語っているように、この『戦旗』の読者の一人で、そのために小倉警察署に留置されてもいる。その他にも顔が見えない多くの読者がいたであろうし、それゆえに既存の『新潮』などをはるかに上回る二万二千部に達したと見なしていいだろう。

 それは「日本プロレタリア作家叢書」にも当てはまるはずで、徳永直『太陽のない街』と小林多喜二『蟹工船』はいずれも初版一万部だった。後者は「雑誌に発表当時評判を呼び」、小林を「プロレタリア文学陣営の第一線に押し出した作品だけあって、取次店から続々と追加注文がきて何度も増刷中に発売禁止となった」のである。だがそれでも前々回既述しておいたように、半年間で三万五千部に至ったのは、『戦旗』と同じく「直接配付網」によっていたことはいうまでもあるまい。

 

 しかも小林は「いわばプロレタリア文学のベストセラー」となった『蟹工船』の印税に関して「百円位」を得ただけで、「数千円に上る」残りの印税は戦旗社に寄付し、それは戦旗社の出版経営の資金となったのである。だが昭和五年五月二十日に戦旗社の事務所は日比谷警察書に踏み込まれ、メンバーは総検挙され、それは編集や事務のみならず、出入りする人々、広告取次、紙屋、印刷屋など百人近くに及んだ。この戦旗社総検束事件によって、壺井は半年間の刑務所生活を送り、保釈されたのは昭和六年の春で、その間に戦旗社は分裂し、彼が戻る場所ではなくなっていた。そのために日本プロレタリア作家同盟の仕事へと移っていったのである。それはまたふれる機会もあるだろう。


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