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古本夜話1264 新日本出版社『プロレタリア詩集』、松永伍一『日本農民詩史』同『農民小学校』

 前回、昭和に入ってからのプロレタリア文学書シリーズの刊行リストを挙げ、それらの中に小説だけでなく、年刊日本プロレタリア詩集』『労農詩集第一輯』『ナップ7人詩集』『詩・パンフレット』などの詩も出版されていたことを確認しておいた。これらの年刊アンソロジー出版はその時代における詩のポジションの重要性を物語るものであった。実際に『戦旗』を始めとするプロレタリア文学運動雑誌にも詩は不可欠で、詩人も重要な役割を果たしていたし、それは本探索1257の壺井繁治にも象徴されていよう。

f:id:OdaMitsuo:20220406140417j:plain:h120 f:id:OdaMitsuo:20220406140642j:plain:h120 f:id:OdaMitsuo:20220406145442j:plain:h120(『詩・パンフレット第三集』)

 その事実をふまえてであろうが、新日本出版社『プロレタリア文学集』38、39は『プロレタリア詩集(一)』『プロレタリア詩集(二)』に当てられ、ほとんど知られていない人たちも含め、多種多様なプロレタリア詩と詩人たちを召喚して、壮観であるといっていい。それでなければ、まさにこの『プロレタリア文学集』ならではの、前、後編二七七人に及ぶ『プロレタリア詩集』の編纂刊行は不可能であったろう。

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 この二冊は大正元年の石川啄木「はてしなき議論の後」から、昭和十二年の国見善弘「死の凱旋兵」までを収録しているけれど、そのうちの一〇〇人近くがまったくプロフィルも不明だという。この全集のコンセプトは先行する三一書房の『日本プロレタリア文学大系』(全九巻、昭和三十年)に範を仰いでいたはずだが、こちらは詩の巻を独立させていないので、このような二巻本が編まれたのであろう。

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 それは先に挙げたアンソロジーの詩人のみならず、『戦旗』『文芸戦線』『ナップ』などへの投稿者たち、また全国に散在していたプロレタリア的同人誌『前衛詩人』『新興詩人』『前衛評論』『工場』『鎌』『衆像』『地下鉄』『赤蜂』に寄稿していた多くの無名の詩人たちをも収録したことによっている。なおこれらの同人誌群は昭和五年にプロレタリア詩人会として統一的結合を見て、六年に機関詩誌『プロレタリア詩』を創刊するに至る。プロレタリア文学運動において、まさに詩も時代の叫びようにしてどよめいていたのである。

 『プロレタリア詩集』二巻の編集事情は詳らかにしないが、それぞれの単行本詩集だけでなく、年刊アンソロジー、雑誌投稿、同人誌などの広範な分野から収集されたことは明らかで、大正から昭和にかけてが、プロレタリア詩の時代に他ならなかったことを浮かび上がらせている。そのことに関して、ここで二十年ほど前のエピソードを記しておこうと思う。

 それは初版『日本アナキズム運動人名事典』(ぱる出版、平成十六年)にまつわるもので、編集委員の冨板敦から、東海地方のアナキストの情報や資料の収集と確認を依頼されたのである。そのひとつは昭和五年創刊の詩誌『農民小学校』のメンバーの古山信義、鈴木武、鈴木致一、石川和民に関してだった。『農民小学校』とその同人たちは松永伍一『日本農民詩史』(中巻(一)、法政大学出版局)の口絵写真に掲載され、『農民小学校』とともに各人の詩集の書影もまた紹介されていた。

日本アナキズム運動人名事典  f:id:OdaMitsuo:20220409210537j:plain:h110

 そして同書の第三編は「アナキズムの土壌その一」、その第十一章は「『農民小学校』の友情」と題され、静岡県天竜川河口に近い磐田郡における、四人による『農民小学校』の軌跡がたどられていく。それは同人持ち回りの編集で十号まで出され、各人が自らの詩集も刊行し、古山は『農民』や『弾道』にも詩を掲載し、その詩集『土塊の合掌』は東京の詩人時代社から出版されたこともあって、静岡の農村の詩誌『農民小学校』は読者の記憶に残されたようだ。

 これらが松永の『日本農民詩史』に示された『農民小学校』と同人たちのアウトラインだが、まずは書誌的なことから始めて、古山の詩集の版元名と重なる、東京ならぬ浜松の時代舎に問い合わせてみた。すると『農民小学校』はずっと未見のままで、もし全冊揃って出れば、古書価はとんでもなく高いものになるだろうし、各人の詩集に関しても同様だということだった。

 そこで息子と小山の孫が中高と同級だったことを思い出し、古山家に訊ねてみたところ、古山はその後農業組合役員、村の収入役に就任し、戦後は農協組合長、農業委員、農業共済組合理事を兼任したこともあり、若き日の詩人活動はすべて廃棄され、まったく語ることもなかったという。

 もう一人の鈴木武のほうは、クロポトキンを読んでいた兵士として、中国から復員し、戦後蜜柑栽培と乳牛の飼育に携わり、逆境にある子どもたちを集め、「草の実牧場」を営み、戦後を生きたとされる。この鈴木の近辺に旧知の図書館員が住んでいたので、やはり問い合わせてみると、昭和三十年代まではその「草の実牧場」を目の当たりにしていたとのことだった。

 しかしすでに今世紀を迎えていたし、『農民小学校』も入手できず、当然のことながら、同人の四人も鬼籍に入り、松永の『日本農民詩史』でたどった消息以外のことは見出せなかった。そうしたわけで、冨板の依頼には応えられなかったことになるし、それは現在においても変わっていない。

 なお古山信義、鈴木武、鈴木致一の三人は『日本アナキズム運動人名事典』に立項されていることを付記しておく。


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