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古本夜話1265 下村千秋『ある私娼との経験』と平輪光三『下村千秋 生涯と作品』

 前回、天人社の『現代暴露文学選集』をプロレタリア文学シリーズのひとつとして挙げたが、これはすでに『近代出版史探索Ⅱ』394で取り上げていることを思い出した。

 そこで言及したのはその一冊の中本たか子『朝の無礼』で、彼女がプロレタリア文学者にして蔵原惟人の夫人であり、『現代暴露文学選集』の編集者がやはり『同Ⅱ』392の鎌田敬止だとも指摘しておいた。ただその際にはまたの機会もあるはずだと考え、全十巻の明細をリストアップしておかなかったのだが、残念ながら、その後再び『現代暴露文学選集』に出会っていないのである。

 しかしこのような機会を得たこともあり、『現代暴露文学選集』の興味深いメンバーと各作品集のタイトルをラインナップしてみよう。『日本近代文学大事典』第六巻「叢書・文学全集・合著集総覧」の解題によれば、「昭和の初期、暴露もの、ルンペンものなどは一種の流行現象でもあった。とくに下村千秋はその中心人物」で、「これ正に現世の地獄絵巻」「或る売笑婦の、或は農民の、或は鉱山の、或は工業の、或は軍隊の、或はサラリーマン、或は労働者の、それぞれの暗澹、悲惨、奇怪、醜悪なる内幕を描いたシリーズとされる。

1 浅原六朗 『或る自殺階級者』
2 岩藤雪夫 『工場労働者』
3 黒島伝治 『パルチザン・ウオルコフ』
4 佐々木俊郎 『熊の出る開墾地』
5 下村千秋 『ある私娼との経験』
6 武田麟太郎 『暴力』
7 橋本英吉 『炭坑』
8 中本たか子 『朝の無礼』
9 藤沢桓夫 『生活の旗』
10 細田源吉 『巷路過程』

3 5  7

 このうちの8の中本たか子『朝の無礼』しか購入していないけれど、7の橋本英吉は『近代出版史探索Ⅴ』855、9の藤沢桓夫は本探索1262でふれたばかりだし、他の作家や作品も、新日本出版社の『日本プロレタリア文学集』(全四十巻、別巻、昭和六十年)において、多くを読むことができる。それに中心人物とされる5の下村に関しては、かなり以前に平輪光三『下村千秋 生涯と作品』(崙書房、昭和五十年)を入手している。同書には下村の「流行作家時代」という一章も設けられ、『ある私娼との経験』への言及も見出されるので、それをたどってみる。

日本プロレタリア文学集 2 初期プロレタリア文学  

 その前に下村の「流行作家時代」に至る簡略なプロフィルを示しておこう。明治二十六年茨城県生まれ、大正八年早大英文科卒。読売新聞記者を経て、牧野信一、浅原六朗たちと同人誌『十三人』を創刊し、小説を発表する。昭和に入って興隆してきたプロレタリア文学の社会悪暴露の風潮に刺激され、同伴者作家としてルンペンや私娼を取り上げ、「ある私娼との経験」(『文藝春秋』)や「浮浪児」(『中央公論』)などを発表し、ルンペン文学の先駆となった。

 意外なことに『日本近代文学大事典』における下村の立項は一ページを占め、代表作とされる『天国の記録』(中央公論社、昭和六年)などがもたらした波紋と影響、「流行作家時代」の名残りを伝えているようで、戦後の筑摩書房『昭和小説集(一)』(『現代日本文学全集』)86、昭和三十二年』にも収録されている。

(『天国の記録』)現代日本文学全集〈第86〉昭和小説集 (1957年)

 天人社の『ある私娼との経験』は未読だが、この短篇は平輪の著作に要約が提出されているので、それを示す。主人公の「私」は悪友のKに誘われ、私娼のとみ子を知り、その身の上話を聞く。すると彼女は女工として働いていたが、十七の春に父のために料理屋に売られたのが始まりで、だるま屋、女郎屋、カフェーを転々とし、最後にこの私娼窟に流れてきた。ところが私娼特有の病気も重く、入院したので、「私」は訪ねていくようになり、彼女を私娼窟に帰す気になれず、身受けし、東京から離れた鉱泉宿へと連れ出した。それから「私」は彼女を東京へと戻し、学生時代の下宿屋に頼み、隠れているように伝えたが、そのうちに下宿から姿を消してしまった。そこでKに頼み、元の私娼窟に見にいってもらった。やはり彼女はそこに舞い戻っていたのであり、Kはいうのだった。「僕から見れば地獄のやうな所でも、彼女たちには案外極楽かも知れんぞ」と。

 これはラフスケッチにすぎないが、平輪のほうはより丁寧な要約の後で、次のように述べている。

 千秋は、この小説の中で、業者がどんな風に女達から搾取するか、警察と業者との馴れ合、女を食い物にする男などを計数的に暴露している。随って報告文学的な傾向もあって文学的感銘に迫力を欠くばかりでなく、描写も平面的なのが気になる。しかし、この短い小説が、所謂暴露文学のひとつの発端となったことの意義は少なくない。この小説は二年後の昭和五年、プロレタリア文学の諸作家と共に、天人社が出版した「現代暴露文学全(ママ)集」の中の一冊として『ある私娼との経験』の書名で発刊されたが、風俗描写のため発禁となり、収録作品を替え、『明るい暗黒街』と改称して再刊した。

 

 そこで『発禁本Ⅲ』(「別冊太陽」)を見てみると、確かに『ある私娼との経験』が書影入りで見出される。それもあって、『近代出版史探索Ⅵ』1098の『明治大正文学全集』52の『細田民樹・細田源吉・下村千秋・牧野信一』(昭和六年)の下村作品が「ある私娼との経験」ではなく、同書の「ドナウ・ホテルの殺人」のほうが収録となっていることを了承するのである。

発禁本 (3) (別冊太陽)

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