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古本夜話1268 エリナ・グリン、松本恵子訳『イット』と奢灞都館「アール・デコ文学双書」

 前回の松谷与二郎『思想犯罪篇』の巻末広告にエリナア・グリーン、松本恵子訳『イツト』が見出された。そこには「世界的流行の尖端イツトの原本! クララ・ボウによつて全世界にふりまかれたイツト イツトとは? 人生の大問題たる性関係、性心理、性道徳を一変しつゝあるイツト! イツトを理解すれば人生が愉快だ!」というキャッチコピーが躍っていた。

 

 プロレタリア文学シリーズと見なしていい『現代暴露文学選集』「世界犯罪叢書」の刊行のかたわらで、このような「「世界的流行の尖端イツトの原本」を翻訳出版する天人社の企画のちぐはぐさは新興出版社ならではのものだが、「新芸術論システム」シリーズも刊行していることからすれば、それほど驚くべきではないであろう。コピーにあるように、『イツト』は1927年にクララ・ボウ主演で映画化され、「イツト(性的魅力)」という流行語を生み出したとされる。この映画はニューヨークにおける没落貴族の誇り高き令嬢と若き新興実業家が繰り拡げる都会情趣に彩られた恋愛劇のようだが、残念ながらビデオやDVDに巡り合えず、観る機会を得ていない。

 しかし天人社版『イツト』は昭和五十八年に奢灞都館によって、生田耕作監修・校訂で復刻され、その巻末には映画『イツト』のスチール写真を見ることができる。しかもこの復刻は「アール・デコ文学双書」第二回配本としてで、生田と奢灞都館は一九二〇年代に「小説の黄金時代」を見出し、この企画はその再現のために試みられたと思われる。それは裏表紙に示された「アール・デコ文学双書」のコンセプトにも明らかなので、それを示す。

 ”狂つた歳月”Folles Années —1920年代 ”装飾的芸術”Art Decoの時代とも呼ばれ、文明が爛熟とデカダンスの豪奢な人工花を絢爛と咲き誇らせ、大恐慌の灰色の季節の到来とともに旧属にその彩りを凋ばせた―天国のこちら側(ジスサイドオブパラダイス)。

イット (1983年) (アール・デコ文学双書) (奢灞都館版)

 私たち戦後世代には実感がわかないのだけれど、ヨーロッパのみならず、アメリカでもF・L・アレン『オンリーイエスタディ』(藤久ミネ訳、研究社)で描かれているように、一九二〇年代は特別な時代であり、生田たちの世代には爛熟とデカダンスのアール・デコの中にもたらされた大恐慌のディケードとして甘受されたのだ。そえゆえに一九八〇年代の日本において、重なるかのような「懐しい20年代の雰囲気を伝える作品を選んで、出版当時の装いを再現して贈る」「アール・デコ文学双書」が企画されたのであろう。そのラインナップを挙げてみる。

1 アニタ・ルース 『殿方は金髪がお好き』 秦豊吉訳、『世界大衆文学全集』15所収、改造社
2 エリナ・グリン 『イット』 松本恵子訳、天人社
3 カール・ヴァン・ヴェクテン 『盲のキューピッド』
4 ロナルド・ファーバンク 『人工皇女』
5 マイケル・アーレン 『グリーン・ハット
6 スコット・フィッツジェラルド 『楽園のかけら』
7 ベン・ヘクト 『悪の王国』 『悪魔の殿堂』近藤経一訳、『世界猟奇全集』8所収、平凡社
8 カール・ヴァン・ヴェクテン 『ハリウッド行進曲』
9 ピエール・マツコルラン 『女騎士エルザ』 永田逸郎訳、「フランス現代小説」6、第一書房
10 プレーズ・サンドラール 『聞かせてほしい』
11 ポール・モーラン 『オリエント急行』
12 モーリス・デコブラ 『寝台車のマドンナ』 有賀宗太郎訳、一元社  

 殿方は金髪がお好き (1982年) (アール・デコ文学双書)(『殿方は金髪がお好き』)

 このように「アール・デコ文学双書」は全十二巻として予告されていたが、1と2の二冊を刊行しただけで中絶してしまった。日本も欧米の「狂つた歳月」的なバブル時代を迎えようとしていたけれど、残念ながらこの「双書」は読者に受け入れられなかったと推測するしかない。

 1の訳者の秦は『近代出版史探索Ⅴ』822などで、同じく2の松本恵子は『同Ⅵ』1176や拙稿「松本泰と松本恵子」(『古本探究』所収)で取り上げているし、その元版も判明しているので、作品も含め、ここでは言及しない。しかし3は生田文夫訳とされていることからすれば、新訳を予定していたはずだが、4から12に関しては、新訳なのか復刻なのか特定できない。ちなみにこれは蛇足かもしれないが、生田文夫は耕作の子息だと思われる。また3の翻訳中断事情は「書肆 遅日草舎」に詳しい。
chijitsu.blog.fc2.com

近代出版史探索VI 古本探究

 そのことはさておき、このリストの3から12の翻訳について、国会図書館編『明治・大正・昭和翻訳文学目録』を確認すると、7の『悪の王国』、9の『女騎士エルザ』、12の『寝台車のマドンナ』しか見出せなかった。それにこれらは未見であり、また3と8のヴェフテン、4のファーバンク、5のアーレン、7のヘクト、12のデコブラの著書は初めて目にするものだった。6の『楽園のかけら』や11の『オリエント急行』などは既訳があるのではないかと思っていたけれど、見当らなかった。

明治・大正・昭和翻訳文学目録 (1959年)

 ということは『同目録』にももれているのか、それとも「アール・デコ文学双書」にラインナップされた半数以上が未邦訳だったことになるのだろうか。デコブラの『寝台車のマドンナ』の版元の一元社にしても、初めて目にするものである。そうしたプロフィルの定かでない出版社もこれらの作品の背後に控えているのかもしれない。

 なお「同双書」の刊行と時を同じくして、クララ・ボウに言及した海野弘『モダンガールの肖像』(文化出版局)や『アール・デコの時代』(美術公論社)も出版されていたのである。

モダンガールの肖像―1920年代を彩った女たち アール・デコの時代


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