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古本夜話1274 改造社『社会科学大辞典』と社会思想社、荘原達

 本探索1270で、葉山嘉樹の『海に生くる人々』が堺利彦と青野季吉を通じて、改造社の山本実彦のところに持ちこまれていたことを記述しておいた。改造社は大正八年の『改造』の創刊、翌年には賀川豊彦の『死線を越えて』のベストセラー化、同十五年は『現代日本文学全集』の画期的成功によって、社会科学書や文学書を始めとして、多くの持ちこみ企画があったと考えるべきだろう。改造社の側からすれば、葉山と『海に生くる人々』はそれらの中の一エピソードにすぎないし、陽の目を見なかった企画も多かったにちがいない。

(『海に生くる人々』)復刻版 死線を越えて   (『現代日本文学全集』)

 しかし幸いにして出版に至ったと見なせる社会科学書があり、『社会科学大辞典』もその一冊といっていいだろう。所持しているのは昭和七年の『改訂縮刷社会科学大辞典』のほうだが、これは四六判上製、索引も含めると千五百ページに及ぶ大冊で、しかも奥付には定価三円五十銭、特価二円五十銭と二重表記されているので、おそらく『現代日本文学全集』と同様の円本予約特価を範とする流通販売によっていたと思われる。

 初版は昭和五年で、しかも大部の専門的辞典であることを考慮すれば、プロレタリア文学の最盛期の中でのヒットと見なすべきで、ただちに円本の生産流通販売に則った廉価縮刷、大重版となったと推測される。だがこの辞典は改造社版と銘打たれているけれど、「刊行の辞」と奥付は検印紙の社会思想社の印にも明らかなように、社会思想社による企画編集であり、改造社が生産と流通販売を担う発行所を引き受けていたことになる。それらを示す昭和五年四月付の「刊行の辞」を見てみよう。

 それは「広く社会運動、社会思想、社会問題に関する記説を経とし、之に連関ある社会科学諸般に及ぶ叙述を緯として一の綜合的辞典を編まんことは社会思想社創立以来の宿案である」と書き出されている。その目的は「一般社会科学研究家に対する全面的・世界的・統一的知識の浸透」、及び自ら「街頭に戦ひつゝある社会運動家に対して犀利なる批判の武器を提供する」ことにあった。それゆえに社会思想社の名前で公刊に至った『社会科学大辞典』は「この宿案の解決」として「社会的任務の遂行」に他ならなかったのである。

 その編集は昭和三年五月に着手され、社会思想社同人四十人も含めて百三十一名に上り、満二ヶ年の歳月を経て、改造社からの刊行に及んだことになる。それらの執筆者全員の名前が続いて掲載され、実に興味深いし、彼らの多くが円本時代も含め、著者や訳者、あるいは雑誌執筆者としても多方面に召喚されていったと想像するに難くない。それらの全員は挙げられないので、十一人の編集委員だけでも示してみる。それらは石濱知行、河村又彦、佐々弘雄、平貞蔵、林要、蝋山政道、嘉治隆一、後藤信夫、荘原達、波多野鼎、丸岡重堯である。彼らのうちで中心的存在だった丸岡と同人、執筆者の宗道太の刊行を見ずしての死も報告、追悼されている。

 奥付の編者社会思想社の代表として名前が記載されているのは、先の編集委員の荘原達で、『近代出版史探索Ⅲ』581で名前を挙げているが、『近代日本社会運動史人物大事典』に立項が見出せるので、それを要約してみる。明治二十六年山口県生まれ、二高在学中に新人会に加入し、東京帝大法学部に進み、大正十二年卒業後、総同盟の機関紙『労働問題』の編集に携わる。労働農民党結党に際し、中央常任委員となるが、紛糾が起き、運動の第一線を退く。昭和二年から社会思想社の同人として『社会思想』、及び同誌と『我等』が合併して発足した月刊誌『批判』の編集や東京政治経済研究所の運営に当たった。これが『社会科学大辞典』刊行までの荘原の軌跡で、戦後は日本社会党本部総務部長なども務め、著書に『農民組合論』、訳書にエンゲルス『イギリスに於ける労働者階級の状態』があるとされている。

近代日本社会運動史人物大事典   (『農民組合論』)

 私は『社会科学大辞典』を編んだ社会思想社が戦後の「現代教養文庫」などの社会思想社の前身ではないかと思っていたが、それは誤解で、『社会思想』という雑誌の発行所だったことになる。さらに先の「刊行の辞」を確認してみると、戦前の社会思想社は大正十年頃に創立され、荘原に見られるように「直接に実際運動の第一陣に身を投じ」ながら、合著書として、『各国無産政党発達史』『労農連邦研究』『農学政策綱領研究』などを刊行してきたという。

 したがって、『社会科学大辞典』は社会思想社が実際の社会運動家の必携の一冊として編纂し、「理論的糧食たるの貢献」を願い、満を持して刊行した実用的辞典いうことになろう。私の手元ある図書はそれを象徴するかのようにいかにも疲れている。だが残念ながら、その「貢献」に関する証言にはまだ出会っていない。


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