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古本夜話1278 希望閣、野々宮三夫『世界プロレタリア年表』、市川義雄

 昭和に入ってのプロレタリア文学全盛の時代にはそれらの分野に類する多くの文献が刊行されていたはずで、野々宮三夫『世界プロレタリア年表』も、その一冊に挙げられるだろう。同書は菊判函入、上製一九四ページとして、昭和七年に希望閣から出されている。

 この『世界プロレタリア年表』はタイトルにふさわしく、プロレタリア資料集の趣で、二部からなり、第一部は欧米諸国、日本、支那におけるそれぞれのプロレタリア運動史である。例えば、「日本之部」を繰ってみると、プロレタリアが登場するのは明治十三年=一八八〇年の四月十七日で、「国会開設請願運動引続き熱烈に起され請願二府廿二縣八万七千余に上る」とある。そしてそのクロニクルは昭和五年十二月廿八日=一九三〇年の「豊島師範学校争議。十二日目に惨敗終了す」へと引き継がれ、この年の総括的記述もしたためられている。「治安維持法違反検挙数は四二三名を示し、四・一六事件を含む昨年度より八十八人増加す。コンミニスト・グループより検挙最多とせらる」と。

 あらためて「日本之部」のプロレタリア年表をたどってみると、大正半ばから争議ストライキが多発し、各魯ウヅ組合や同盟などが組織され、警察による検挙が起きているとわかる。それに併走するようにして、日本のプレタリア文学も隆盛しつつあったことも了承される。

 これらの「国際」「日本」「支那」の「プロレタリア年表」に加えて、後半は「マルクス・エンゲルス年譜」「同著作年表」「レーニン年譜」「同著作年表」という構成で、いってみれば、インターナショナルなプロレタリア、マル・エン・レーニンの歴史であり、コミュニズム三題通史とでも称すべきかもしれない。函は野々宮三夫著、奥付も同様で、検印紙にも野々宮の印が認められるけれど、「緒言」は「編者」として述べられ、次のような文言が見える。

 書肆希望閣は、日本に於ける運動の進展がプロレタリア側よりするかゝる年表の発刊を必要と感ぜられ、編者にそれの作成を要望せられた。もとより編著はその任ではない。しかしその必要を感ずる点に於て人後におちるものでない。同志両三人相はかつて鋭意編輯した。

 つまり『世界プロレタリア年表』は野々宮の単著ではなく、「同志両三人」の編著ということになろう。それに同書は『発禁本』(「別冊太陽」、平凡社)に明らかなように発禁処分を受けている。野々宮の名前は『近代日本社会運動史人物大事典』に見えていないけれど、おそらくペンネームだと考えられるし、「同志両三人」をもじっているのではないだろうか。

発禁本―明治・大正・昭和・平成 (別冊太陽)

 先の『発禁本』は「政治と思想の弾圧」の章において、大正十四年の治安維持法の施行、昭和三年の思想取り締まりのための内務省保安課の新設と憲兵隊思想係りの設置により、共産主義運動や労働運動、プロレタリア文学や自由主義的思想なども次々と取り締まり対象となっていったと述べている。そして具体的にそれらの発禁本の書影が掲載されているのだが、希望閣は『世界プロレタリア年表』の他に、次のようなものが挙げられている。パシユカニー・エルコリ、吉野、万里共訳『ファシズム論』、スターリン他、野坂参弐訳『英国総同盟罷業の意義と批判』、レーニン他、国分孝訳『マルクス主義の鏡に映じたるトルストイ』、ラドボルスキー、今野時也訳『帝国主義十字軍』、山瀬音吉『註解ロシア革命誌』、小泉保太郎『左翼労働組合運動』などで、最も多きに及び、希望閣が当時の左翼出版社としても著名だったことをうかがわせている。

 発行所の市川義雄のほうは本探索1271でもふれているが、野々宮と異なり、『近代日本社会運動史人物大事典』に出版業、希望閣経営者として立項されているので、それを要約してみる。明治二十七年山口県生まれ、陸軍士官学校卒業後、砲兵中尉となったが、共産主義者の兄の市川正一の影響を受け、新聞記者となる。大正十年正一が青野季吉、平林初之輔たちと創刊した雑誌『無産階級』に加わる。なおこの雑誌の刊行資金は義雄の職業軍人退職金であったという。翌年には創立したばかりの共産党に入党し、出版従業員組合を結成して、その常任委員となる。同十三年に希望閣を設立し、雑誌『マルクス主義』を創刊し、多くの社会科学書、社会運動関連本を刊行したとされる。

近代日本社会運動史人物大事典

 市川兄弟の軌跡に関しては、みすず書房の『現代史資料』1617が詳しいが、大正末から昭和初期にかけて、多様にして多彩な分野から多くの人たちが参画することによって、日本のプロレタリア運動にしても、隆盛になっていったにちがいない。

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