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古本夜話1288 荻野正博『弔詩なき終焉―インターナショナリスト田口運蔵』

 少し飛んでしまったが、本探索1272でふれたトロツキイ『自己暴露』の実質的な翻訳者と思しき田口運蔵に関して、『近代出版史探索Ⅱ』389のウェルズ『生命の科学』の訳者の一人としても挙げているが、荻野正博『弔詩なき終焉』(御茶の水書房、昭和五十八年)が出されていることをしり、入手した。それは本探索1265で書いているように、地方の小出版社からひっそりと刊行された平輪光三『下村千秋 生涯と作品』もかつて偶然に購入し、様々に教示されたことがあったからだ。

 弔詩なき終焉―インターナショナリスト田口運蔵 (1983年)  

 それに近年地方大学の人文系の教授たちから出版の相談を受ける機会が続けて生じ、おそらく平成に入ってのことだろうが、それまでは存在していた人文系研究者、専門学会、出版社や編集者といった三位一体の関係が成立しなくなり、失われてしまったことを実感したからでもある。昭和の時代までは平輪や荻野のように、大学アカデミズムに属していなくても、各地方の篤学な仕事を出版に至るまでフォローする版元や編集者が必ず近傍に求められ、そのようにして人文系出版物のベースは築かれていたと思われる。しかもそれらが公的な県史や市史などの出版物の間隙を埋める文化、社会史的機能を果たしていたといえよう。

 荻野の『弔詩なき終焉』もそうした期待に応える労作で、この「インターナショナリスト田口運蔵」というサブタイトルを付した一冊には多くのことを触発、教示されたので、続けて数編を書いてみたい。

 荻野は田口と新潟県新発田市の郷里をともにし、田口の生家と荻野の亡父の実家が地続きの隣家であったこと、それに田口の従弟からも運蔵伝を慫慂されたという事情も加わり、「忘れられた革命家・田口運蔵の生涯を可能な限り復元することを目的とした伝記」として仕上がっている。その著者ならではの試みは成功しているといっていい。その資料博捜を示す労作ぶりは一三ページに及ぶ「田口運蔵年譜・著作目録」にもうかがえる。実際のところ、『日本プロレタリア文学集』別巻の『プロレタリア文学資料集・年表』には田口の名前も作品も見当らないのである。

 まず私の関心からいえば、田口は『文芸戦線』(昭和三年史四月号)に「エンマ・ゴルドマン」を寄稿している。これは初めて知るし、未見で、田口は『エマ・ゴールドマン自伝』に出てこないけれど、エマたちは日本政府に対する大逆事件抗議運動を展開したこともあり、ニューヨーク、もしくはモスクワで田口と出会っていたことは十分に考えられる。いずれ田口の一文を読む機会を見つけよう。

エマ・ゴールドマン自伝〈上〉

 さてそれはともかく、トロツキイの『自己暴露』の翻訳についてはまったく言及されておらず、また田口の昭和に入ってからの軌跡を追ってみても、荻原もその晩年を第六章「生活苦と病気とのたたかい」でトレースしているように、トロツキイの大著を翻訳する体力も時間もなかったことは明白である。『自己暴露』、続編『革命裸像』が昭和五年に相次いで刊行されている事実を考えても、田口の名前が挙がっているのは翻訳カンパ的配慮に起因していると見なすしかない。とすれば青野季吉がともに挙げていた長野兼一郎が実質的に翻訳を担ったことになるのだろうか。ただ二冊の分量からしても長野一人だけに負わせるわけにはいかないし、ここにまたひとつ、左翼文献の翻訳の謎が加わったことになろう。

 それからあらためて教えられたのは田口に著書が三冊あったことで、その一冊が『赤旗の靡くところ』で、昭和五年に文芸戦線社出版部から刊行されている。これは『改造』に発表された小説「密航者となるまで」を始めとする作品集だが、荻野が当時の評を引いているところによれば、田口の作品は小説というよりも、すべて放浪記、ただの記録として読まれたようで、田口の本領は海外体験に裏打ちされた評論のほうにあったとされる。この「密航者となるまで」は本探索1278の葉山嘉樹の勧めによって書かれ、同1258の前田河広一郎がそれらをまとめた『赤旗の靡くところ』として文芸戦線社に持ちこんだものだ。定価九十銭、初版千部はほぼ売り切れ、田口の医者への支払いに回されたという。

新・プロレタリア文学精選集 7 赤旗の靡くところ (ゆまに復刻)

 それは意外でもないけれど、あらためて驚かされたのは、田口がやはり昭和五年に大衆公論社から『赤い広場を横ぎる』『世界を震撼さすスターリン―その人物と彼が事業』を出していたことである。これは失念していたけれど、『近代出版史探索Ⅵ』1183で、同1182のゾラ『ジェルミナール』の訳者伊佐襄のユスポフ『ラスプーチン暗殺秘録』を刊行した大衆公論社にふれたが、その際に既刊書として田口の『赤い広場を横ぎる』も挙げておいたのである。

(『赤い広場を横ぎる』)

 伊佐にしても田口にしても訳者と著者の立場は異なるにしても、『赤い広場を横ぎる』はもちろんだが、ラスプーチンといい、スターリンといい、同様のロシア物であるので、やはり持ちこんだ人物が同じであったか、大衆公論社がそうした傾向の版元だったとも考えられる。しかしこれまたプロレタリア運動関係の出版者も企画や人脈が錯綜していて、その視界は定かでない。

 またこれも『弔詩なき終焉』で気づかされたのだが、みすず書房の『現代史資料』14に田口の一九二一年のコミンテルン第三回大会における演説が収録されていたのである。これは大会議事録として残されていた資料で、編纂者の山辺健太郎は「でたらめもまた甚しい」「山師」の発言だと断罪しているが、多少の誇張はあるにしても、「でたらめ」ではなく、それなりの「信憑性」があることを、荻野は論証している。

 (『現代史資料』14)

 この『現代史資料』14は『社会主義運動(一)』で、一九一七年から四三年にかけての日本共産党のテーゼ・綱領・決議・指令など九七点を収録した一巻である。実は私も「山辺健太郎と『現代史資料』」(『古本屋散策237、日本古書通信2021年12月号所収』を書いているのだが、山辺に気を取られ、田口のコミンテルン演説を見落としてしまっていた。記録や資料をめぐる当事者と編纂者の問題に関しても、慎重に細心の中止が必要であることを痛感した次第だ。


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