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古本夜話1303 中富兵衛『永岡鶴蔵伝』

 片山潜をめぐる人々として、その両頭とでもいうべき田口運蔵や近藤栄蔵に言及してきたが、異色の人物に挙げられる永岡鶴蔵にもふれておくべきだろう。そうはいっても僥倖のように、永岡に関しては中富兵衛による「犠牲と献身の生涯」というサブタイトルが付された『永岡鶴蔵伝』『永岡鶴蔵伝』(御茶の水書房、昭和五十二年)が出されている。

 『永岡鶴蔵伝』は二四ページもの多くの口絵写真に加えて、A5判三七七ページに及ぶ浩瀚な一冊で、永岡の生涯を描くだけでなく、「資料編」として、その著作や裁判関係資料などの他に「年譜」も収録し、まさに労作といえよう。著者の中富は永岡と同じ村を出自とし、労働運動に半生をささげてきたこともあって、その伝記を書くのが義務のようにも思われたのである。彼は永らく自治労奈良本部に身を置き、奈良総評議長も務めたとされ、アカデミズムには属していないので、荻野正博の田口運蔵伝『弔詩なき終焉』と同様に、地方の篤学者による営為に他ならないし、版元も同じくしている。

弔詩なき終焉―インターナショナリスト田口運蔵 (1983年)

 そうした在野の研究の蓄積の上に、長岡にしても田口にしても、平成を迎えてからの『近代日本社会運動史人物大事典』における人選や立項が可能になったと考えるべきであろう。永岡のことは荒畑寒村『寒村自伝』(筑摩書房)などでの言及、及び先行するいくつかの短い評伝があったことも承知しているが。それに私にしても『近代出版史探索Ⅵ』1182などのゾラの坑夫を主人公とする『ジェルミナール』の訳者でもあり、ここで取り上げておくべきだと判断しているからだ。

近代日本社会運動史人物大事典  新版 寒村自伝 上下セット   ジェルミナール

 労働経済学者の隅谷三喜男はその「序」を次のように始めている。彼は口絵写真に見える永岡の「獄中記」の所蔵者である。

 永岡鶴蔵は一九一三年二月、貨幣偽造の罪で収監されていた千葉監獄で、家族にも、友人にも見とられず、ひっそりと死んだ。スターリンやモロトフら世界の革命運動のリーターたちにその柩をかつがれて、クレムリンの一角に寄せられた片山潜に比べれば、天地雲壌の差どころではない。ところで片山の名を突然もち出したのは、この二人が深く結びついていたからである。片山が一九〇三年北海道の夕張炭鉱に永岡を訊ねた時、「余は過去七年間労働運動を為すも今度の如く愉快なる時を費したることなし」と、その出会いを喜んだのである。

 そして日本の労使関係の大転換において、大きな衝撃を与えたのは足尾銅山暴動で、坑夫の指導者、組織者として最大の影響力を持ち、労働運動史上にあって、忘れてはならない人物だと見なしていた。それがここにようやく同じ労働運動家の中富の手になる伝記として実現したことになろう。同書によって永岡の生涯をラフスケッチしてみる。

 永岡は文久四年大和国吉野郡大日川村に漢方医の息子として生まれたが、父が没したことで家運も傾き、商家奉公などに出たが、十五歳の時に永岡勘七の養子となった。それから鉱山で働き始め、坑夫として修行し、和歌山、愛媛、兵庫などの諸鉱山を渡り歩く。明治十七年に古河市兵衛に雇われ、新潟草倉鉱山へ向かうが、脚気が流行していたことから、その対策を山主に請願し、代表者として運動する。これが端緒だった。

 それ以後も鉱山遍歴を続けるが、外人宣教師の説教を聞き、これからの人生を正我人道のために捧げる決意をし、働きながらキリスト教伝道に励んだ。そして明治二十六年に院内鉱山で鉱業条例を守ることを要求して、ストライキを組織し、七分通りを認めさせる。これが永岡の主導した労働運動の始まりで、続けて秋田県会の鉱夫税徴収可決に対し、撒廃を訴え、特有の身分保障と須吾不如に基づく鉱山「友子制度」をベースとする日本鉱山同盟会を組織し、勝利を収めた。

 夕張炭鉱では明治三十五年に大日本労働至誠会を結成し、労働者の地位向上のための労働組合的性格へと移行し、片山の『労働世界』と関係を持つようになる。翌年に片山が夕張を訪れ、それを機会として、全国鉱山労働組織をつくることを決意し、足尾銅山に入り、労働同志会を結成し、会員は一時千四百名に達した。また組織の合体や再建もあり、大日本労働至誠会足尾支部として、戦闘的方針のもとで活発な運動を展開したが、坑内で暴動が発生し、拡大激化し、その首魁として起訴された。無罪となったが、足尾を追われ、片山と行動をともにし、運動を行なったとされる。その後玩具の製造販売に携わり、明治四十五年に二銭銅貨で銀貨型メダルを試作したところ、貨幣偽造行使罪に問われ、入獄となり、大正三年に獄中死したのである。

 確かに昭和八年のモスクワの片山の死に比べて、永岡の獄中死は誰にも見とられず、孤独なものであり、永岡自身ももはや社会運動史からも忘れられていたが、中富の伝記が上梓されることによって、あらためて墓標が建てられたことになろう。そうして『近代日本社会運動史人物大事典』にもその名前がとどめられたのである。


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