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古本夜話1304 盲目のアナキスト小野兼次郎

 盲目の来日アナキストとして、エロシェンコの存在はよく知られているし、それはロシア人にもかかわらず、『日本アナキズム運動人名事典』にも一ページ近い立項があることからも明らかだ。

日本アナキズム運動人名事典

 しかしエロシェンコと親しく、同じ盲目で、「日本のエロシェンコ」と称された小野兼次郎は『近代日本社会運動史人物大事典』において、索引には見えていたが、立項されていなかった。だが本探索1264の冨板敦によって『日本アナキズム運動人名事典』では立項に至り、「盲目のアナキスト」としてエロシェンコと並ぶことになった。

近代日本社会運動史人物大事典

 ただこの立項は大正十一年の『労働運動』6号の個人消息欄、及び同年の『朝日新聞』の記事に基づく。上海からの帰途、暁民共産党事件で起訴されていた小野の逮捕をコアとしているので、そのプロフィルは詳らかではない。この小野が意外なことに本探索1299の『近藤栄蔵自伝』『コムミンテルンの密使』にも登場する。残念ながら口絵写真には見出せないけれど、その後の小野の消息も伝えられていることもあり、ここで示しておきたい。先の立項に記されているように、小野も暁民共産党事件の結成メンバーだった。

  

 堺利彦が立ち上げた社会主義パンフレットの出版を業とする無産社があり、大正十年頃には仲宗根源和、貞代夫妻が寝泊まりして業務を担い、後には高瀬清によって多くの出版が続けられ、社会主義プロパガンダの役割を果たしていた。その二階で暁民共産党結成の第一回が開かれ、出席者は近藤、先の二人の他に高津正道、浦田武雄、平田晋策、山上正義、川崎悦行、それに小野の九名だった。階下では仲宗根貞代、高津の妻たよ子、堺の娘真柄が張番を務めていた。

 本探索1294で既述しておいたように、このメンバーのうち、山上と小野を除いた集合写真が「暁民共産党事件出獄記念」とし『近藤栄蔵自伝』に収録され、それらのポルトレはいずれも興味深い。ここでは本探索との関連もあるので、仲宗根夫妻にだけは言及しておきたい。仲宗根は沖縄師範を卒業し、『近代出版史探索Ⅴ』958の伊波普猷の影響を受け、やはり『同Ⅴ』961の比嘉春潮と接触し、社会主義思想にふれ、夫妻で上京して、比嘉の紹介で堺の助手的仕事に携わっている。その後は柳田国男の南島説話会に加わり、『武道極意物語』『空手道大鑑』などの武道書の出版に辣腕を発揮したとされる。

 さて前置きが長くなってしまったが、近藤による小野のプロフィルを提出しなければならない。小野は按摩を業とし、住所不定の浪々の生活を送り、盲人蛇を怖れずで、杖をふり歩き回っていたという。まさにアナキストの座頭市を想起してしまうのである。そのイメージとその後の行方はここでしか描かれ、言及されていないと思われるので、少しばかり長い引用を試みたい。

 小野兼次郎は京都東堀川の生れで、予審書によると明治三十二年四月十一日生とあるから、事件当時二十三歳であった。彼は四歳のとき病気で完全に失明したが、非常に頭がよく、ボルシェヴィキ理論においては、当時において最も徹底した青年の一人であった。本を読む眼をもたぬ彼が、聴き学問だけで、よくここまで理論に徹底したと、栄蔵は舌を捲いたものであった。彼は頭がよかったばかりでなく、壮健で、活動的で、明朗な青年であった。もし眼が満足であったら美男子と分類されたであろう容貌の持主でもあった。彼はまた驚くべき「感」の持主で、栄蔵の売文社はちょっと分りにくい小路の奥にあったが、一度誰かに導かれて来てから、小野はその後、一人で間違いなく訪ねてきた。彼はどんなに分りにくいといわれる家でも、二度行けば三度目からは決して迷わぬと眼あきには想像のつかぬことを言っていた。

 これだけでも驚くべきことだが、さらに小野に関する後日譚があり、思わず勝新太郎の映画『座頭市海を渡る』をも想起してしまった。恐らく大正十二年後半か、十三年前半のことであろう。

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 栄蔵がソ連に渡ってまだウラヂオストックに滞在していた時、小野は単独で日本を脱出し、どこをどう廻ってきたか、とうとうソ連国境を突破して入国し、警備に捕らえられると、栄蔵が入露している筈だから彼に会わせろと要求したそうだ。それをウラヂオのゲ・ペ・ウから聴かされた時栄蔵は彼が同志であることを保証して面会を頼んだが、どういう考えか官憲は二人を引き合わさなかった。栄蔵は心配になって、たびたび彼の処置について訊ねた最後にえた返事は、イルクーツクの盲学校に入れたから安心しろということであった。しかしどうも栄蔵の第六感は安心がならなかった。そしてそれきり、小野の消息はまったく不明となってしまった。彼は内地で同じ盲人の亡命ロシア詩人エロシェンコと親しい仲で、露語をしきりにエロシェンコから教わっていた。エロシェンコは無政府主義者であったが、小野より一足さきにロシアへ帰った。そして彼の消息もその後全然分からなくなったのである。小野はおそらくエロシェンコとの親友関係をソ連官憲に喋って、そしてエロシェンコと同一運命に陥ったのではなかったろうか、と想像される。

 近藤は小野の消息をどこまでつかんでいたか不明だが、藤井省三『エロシェンコの都市物語』(みすず書房、平成一年)に小野の名前が一ヵ所だけでてきて、「シベリアにわたり後に現地で粛清される」とあった。

エロシェンコの都市物語―1920年代 東京・上海・北京

 やはり続けてエロシェンコのことも たどってみなければならない。


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