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古本夜話1306 藤井省三『エロシェンコの都市物語』と中里介山『大菩薩峠』

 藤井省三は『エロシェンコの都市物語』において、中村彝が描いた「エロシェンコの肖像」をカバー写真に採用している。また魯迅が東京留学中に文芸誌『新生』を準備していた際に、表紙画にするつもりだったG・F・ワッツの「希望」、及びその構図との類似が連想されるギターを抱えるエロシェンコの口絵写真を示した上で、次のように「まえがき」を書き出している。

エロシェンコの都市物語―1920年代 東京・上海・北京  (ワッツ「希望」)

 バラライカと盲人用タイプライターを背負ったロシア “ 盲詩人 ” エロシェンコが、はるかモスクワより単身渡来、「帝都」東京に姿を現したのは一九一四年のことであった。当時二十五歳、すでにエスペラント語と英語をマスターしていた彼は、二年後には日本語により創作童話を発表するまでになり、途中ビルマ、インドへの放浪の旅を経て、一九一九年再来日後は童話の口述創作を本格的に開始、大正間に三冊の童話集を出版している。
 新宿中村屋サロン、早大暁民会などの幅広い交友関係に加えて、日本エスペラント運動にも参加、ギターとバラライカの演奏で、「ステンカ・ラージン」などのロシア民謡を唄いながら、東大、一高、三高など各地のエスペラント会で公演、その活躍ぶりは大いに人々を魅了するものであった。またこの美青年をモデルにした中村彝の秀作「エロシェンコ氏の像」は、大正美術の頂点の一つに数えられている。

 ここに鮮やかに、エロシェンコの日本の大正時代における降臨といっていいような出現が語られていよう。前回既述しておいたように、突然やってきたバラライカを携えたロシアの盲詩人は英語とエスペラント語も操り、日本語も上達し、三冊の童話集も出版し、エスペラント運動にも参加し、ロシア民謡も唄い、その肖像画も描かれ、まさに大正時代のストレンジャーにして、トリックスターの登場のようでもあった。

 それはエロシェンコの人脈が先のエスペランティストや東京盲学校だけでなく、多くの分野に及んでいることにもよっている。主だった人々を挙げてみると、『近代出版史探索』29の竹久夢二、同143の相馬黒光夫妻、『近代出版史探索Ⅱ』204の秋田雨雀、同207の叢文閣の足助素一、同210の小牧近江、同248の佐々木孝丸、『近代出版史探索Ⅳ』633の大杉栄などである。わずかな年月で、エロシェンコが文学や演劇、出版や社会運動人脈と連鎖的につながり、彼をめぐる「想像の共同体」とでもいうべきものが形成されたとわかるであろう。 また本探索1275の長谷川如是閑の『我等』にも寄稿し、同1299などの高津正道とも親しくなり、早大聴講生になったことから、『近代出版史探索Ⅵ』1161の井伏鱒二とも級友となっていた。

 【複刻日本の雑誌】E 創刊号 我等 1982年 講談社 [雑誌] (複刻版)

 彼らの中でもエロシェンコと最も親交を結んだのは秋田雨雀で、彼は父親が盲目でもあり、エロシェンコに触発され、エスペラントも習得し、エロシェンコの作品を日本語に移した。そうした経緯と事情から、叢文閣の二冊の創作集『夜明け前の歌』と『最後の溜息』、それに東京刊行社の『人類の為に』は秋田の編集によっている。

(『夜あけ前の歌])(『最後の溜息』)(『人類の為に』)

 それからこれは高杉一郎編『桃色の雲』『日本追放記』(『エロシェンコ作品集』1、2、みすず書房、昭和四十九年)の高杉「あとがき」で教えられたが、これらの作品の多くが『解放』『我等』『改造』といった総合雑誌に発表されていたのである。この三誌の創刊がいずれもエロシェンコの登場を必然とする大正八年だったことは偶然ではないし、大正デモクラシーの高揚の中で、明治とは異なる雑誌の時代を迎えていたのである。

  

 エロシェンコはまさにそのように時代に降臨していたといえる。藤井が『エロシェンコの都市物語』の第二章「『盲詩人』の誕生」において指摘しているように、それらの総合雑誌だけでなく、これも『近代出版史探索』163の『中央美術』、『同Ⅵ』1049の『みづゑ』、『同Ⅱ』340の『アトリエ』といった美術雑誌も、中村のエロシェンコ像を絶賛し、大日本雄弁会の『雄弁』『婦人くらぶ』『少年倶楽部』も「エロシェンコの像」とともに、童話などを掲載している。それにエロシェンコが大正十年の第二回メーデーで検束されたこともあって、それまでの「詩人」や「パルチザン」としてのエロシェンコではなく、新聞は「過激派露人」「怪露人」「盲詩人」と呼称するようになっていった。それはエロシェンコを「危険な詩人」へと転回させ、暁民会や社会主義同盟での講演も相乗し、日本からの追放へと結びついていくのである。

 暁民会の文芸講演会の聴衆にもたらしたエロシェンコのイメージとそれに続く追放新聞報道に関して、藤井はまだ無声映画の時代だったけれど、盲目のエロシェンコの金髪は絵であり、その言葉は音楽にして、詩のようであったとして、それらは「映像文化黎明期の息吹きに共通するもの」だと述べ、次のように続けている。

 そこにおいて、エロシェンコの語る排日運動や朝鮮問題、労働問題はすでに中心的テーマではなく、観客を昭和に向かって動員するアトラクションの要素―像(イメージ)と音声の構成こそが、聴衆を魅了していたのである。勃興しつつある大衆文化の英雄(ヒーロー)となった盲詩人は、その政治的論理性によってではなく、イメージによって大衆の共感を獲得する。

 それは同じくロシア系の『近代出版史探索』171の大泉黒石、『同Ⅵ』1084のネフスキーと位相を異にする「盲詩人」のもたらす特質であったろう。ただすでに『同Ⅳ』689において、同じような異国における講演シーンを見ている。それはシカゴ万国宗教大会のダルマパーラの講演であり、それも「映像文化黎明期の息吹きに共通するもの」のように思われる。

 しかし私見によれば、流浪する「盲詩人」のイメージは大衆文学のヒーローキャラクターとして取りこまれていったと考えられる。それは大正時代に始まり書き継がれていた中里介山の『大菩薩峠』の机龍之助へと継承され、そこで唄われる「間の山節」こそはエロシェンコの「ステンカ・ラージン」ではなかったか。「間の山節」は拙稿「三省堂と『図解現代百科辞典』(『古本探究』所収)で引いていること、論創社からは完全版『大菩薩峠』が刊行されたことを付記しておく。

古本探究 大菩薩峠 都新聞版〈第1巻〉


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