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古本夜話1310 竹内好『魯迅』と赤木健介

 藤井省三『魯迅「故郷」の読書史』では近代中国における「故郷」の読書変遷史がたどられているのだが、日本での魯迅の受容とそのプロセスはどのようなものであったのだろうか。

魯迅「故郷」の読書史―近代中国の文学空間 (中国学芸叢書)  

 それは前々回、竹内好訳『魯迅文集』第一巻所収の「故郷」をテキストとしたこともあり、竹内に語ってもらうべきだろう。しかも彼はその「解説」で、まとまった魯迅の著作の翻訳に関して、昭和十二年の改造社の『大魯迅全集』全七巻から戦後の昭和五十年の講談社の『魯迅』(『世界文学全集』93)までの七種を示した上で、次のように述べている。

魯迅文集〈1〉 (ちくま文庫)   

 魯迅の日本での読まれ方には変遷があって、一九三〇年代と戦後ではちがうし、戦後もいくつかの段階に分れるだろう。その説明はいまは省く。では、現状はどうかというと、正直なところ、私にはよくわからない。ただ私個人の関心の向け方は自分ではあまり変っていないように思う。その一貫したテーマは何かといえば、要するに近代化の質の問題、ひいては近代のあとに何が来るかの問題であって、その手がかりとしての魯迅ということになる。それが自分にとって切実な問題であるために、読者の好尚はともかく、私個人はあくまで魯迅を同時代の意相にすえて眺めたいのである。

 これは昭和五十一年の竹内の見解だが、魯迅を読むことは「近代のあとに何が来るかの問題」で、それは昭和十八年に書かれ、十九年に竹内の出征中に出された『魯迅』から変わっていない「一貫したテーマ」と判断できよう。魯迅の文学者としての生涯は竹内の『魯迅』の書き出しを借りれば、「民国七年、三十八歳で『狂人日記』を発表してから、民国二十五年、『死せる魂』の訳稿を了えずに五十六歳で上海に没するまで、およそ十八年間、魯迅は中国文壇の中心的位置を一度も退いたことはなかった」。しかもその十八年間は中国文学にとって、「文学革命」と革命文学と民族主義運動と併走する「近代文学の全史」に他ならなかったのである。

 竹内は魯迅を十九世紀ロシアの文学者に擬しているが、巻末収録の「略年譜」を見ると、彼は一八八一年=光緒六年、明治十三年生まれで、日本の近代文学の誕生とも重なっている。もちろん竹内もそれを自覚し、その「死の瞬間においても彼は文壇の少数者であった。彼は死ぬまで頑強に自分を守った」と書きつけているのだろう。それが出征を前にして『魯迅』を書き上げた竹内の決意でもあったはずだし、武田泰淳が寄せた「その性厳にして労多きをかへりみずその清純にして効少きをおそれざればなり」の一節を含む「跋」はそのことを象徴していよう。

 竹内の『魯迅』は武田の『司馬遷』と同様に、日本評論社の「東洋思想叢書」として刊行されている。その出版に関して、竹内は松本昌次との対談「中国と私」(『状況的』所収、合同出版)、武田は佐々木基一、開高健を聞き手とする『混沌から創造へ』(中公文庫)で、いずれも赤木健介のオファーによると語っている。

(「東洋思想叢書」『魯迅』)(『司馬遷』) 

 赤木は『近代出版史探索Ⅲ』595で言及しておいたように、本名赤羽寿、別名伊豆公夫で、唯物論研究会のメンバーだった。その赤木の「東洋思想叢書」に関するダイレクトな証言を見つけたので、それを紹介したほうがいいだろう。それは筑摩書房『武田泰淳全集』(第11巻所収)の「月報」における赤木健介「『司馬遷』について」である。そこで赤木は「編集者歴四〇年、ほかに食べていく能がないため今日に至った」と始めている。この書き出しだけでも身につまされるし、近代出版業界には出版社、取次、書店と場や仕事は異なるにしても、赤木のような人たちが多くいたにちがいないし、それらの不可視の人々が出版業界を支えてきたといえるのである。私が引かなければ誰も参照しないだろうから、赤木によって語らせてみる。

 私が戦争末期に日本評論社に居て、「東洋思想叢書」を企画担当していたとき、武田泰淳さんの『司馬遷』と竹内好さんの『魯迅』を世に送ったことが思い出される。両者とも処女著作であり、両氏が他日大をなすとは正直言って当時思いもかけぬことであった。(中略)

 この「東洋思想叢書」は、昭和17年三月、長与善郎著『韓非子』にはじまり、昭和19年十二月刊の竹内好著『魯迅』までに18冊出ている。戦争末期で、日本評論社にも弾圧があって営業停止状態、紙も悪くなっている頃だから、たぶん『魯迅』がこのシリーズの最後であろう。しかし最初のプランではⅠ一般、Ⅱ古典改題、Ⅲ評伝の三部に分けて83冊が裏広告に発表されている。全巻完成すれば壮観だったろうと、いささか残念であるが、戦時下の出版界であってみれば、やむをえない。
  
韓非子 (1942年) (東洋思想叢書)

 『魯迅』の編集後に、赤木は唯物論研究会事件で下獄し、竹内も武田も出征して中国へと向かい、「東洋思想叢書」は中絶してしまう。それもあって、この「叢書」は『全集叢書総覧新訂版』にも見えていない。


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