出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1315 魯迅とエロシェンコ

 本探索1308、1309、1310と続けて魯迅にふれたので、ここでエロシェンコとの関係にも言及しておくべきだろう。魯迅の『吶喊』は北京の文芸クラブ新潮社の「文芸叢書」第三巻として刊行されたのだが、その第二巻は魯迅訳によるエロシェンコの『桃色の雲』であった。

 本探索1306で既述しておいたように、一九二一年=大正十年にエロシェンコはメーデーに参加して検束されたことなどで日本政府から国外追放命令を受け、ウラジオストック、ハルピンを経て、上海に向かった。上海には世界エスペラント協会中国代議員の胡愈之がいて、彼は中国の近代出版社の雄である上海の商務印書館の編集長にして、エスペランティストだった。エロシェンコは彼の世話で世界語(エスペラント)専門学校の教師となったのである。しかしそこは安住の地ではなく、エロシェンコを幸福にはしなかった。日本からの追放や上海のことは『日本追放記』(高杉一郎編、『ワシリイ・エロシェンコ作品集』2、みすず書房)で語られている。

 

 一九二二年になってエロシェンコは魯迅と弟の周作人の尽力で、北京大学と北京世界語(エスペラント)専門学校の教授として招かれた。それを高杉一郎『夜あけ前の歌』は「北京大学教授」、藤井省三『エロシェンコの都市物語』は「北京大学 “ 教授 ”」として一章を設け、描いているので、それらを参照しながらトレースしてみる。

エロシェンコの都市物語―1920年代 東京・上海・北京

 前者にはエロシェンコと周作人一家と福岡誠一たち、先述の『日本追放記』の裏表紙には魯迅との写真を見ることができるし、当時魯迅は四十一歳、周作人三十七歳、エロシェンコ三十三歳であった。また後者には魯迅、周作人の北京八道湾の敷地五百坪に建てられた伝統的な四合院形式の建物などの見取図が掲載されている。「故郷」の家の投影があるのかは不明だが、そこにエロシェンコも仮住まいにしていたことはとても興味深い。おそらくここが竹内好のいうところの中国の「近代文学の歴史」を痕跡づけるトポスだったのではないだろうか。

 それらはともかく、エロシェンコを迎えた辛亥革命以後の北京大学のパースペクティブを見てみよう。中華民国の学制のベースを築いた蔡元培は一九一七年に北京大学長に就任し、立身出世ではなく、学術研究が学生の本分だと説き、有能な人材を招いた。例えば、魯迅が「故郷」を発表した総合雑誌『新青年』主幹で、後の中国共産党創立者のひとりである陳独秀を文科科長、同じく李大釗を大学図書館主任に迎えた。文学革命の発端となった胡適、『新青年』編集者の銭玄同、日本の「白樺派」の影響を受けたヒューマニズムの主張者周作人も北京大学教授となった。このようにして北京大学には新風が吹きこみ、北京大学と『新青年』は新中国のルネッサンス運動―文学革命の中心となったのである。

 当時、毛沢東は李の世話で、北京大学図書館の下積みの仕事に従事していたが、それは彼の生涯にあって決定的転回点だったと思われる。拙稿「大きな図書館から小さな図書館へ」(『専門図書館』第二四〇号所収、2010年3月)でも既述しておいたが、毛はこの図書館で恩師の娘と知り合い、結婚に至っているし、最大の影響を受けた陳独秀にしても同様で、共産党創立者の二人にも出会い、自らのもそのメンバーとなっていくのである。
jsla.or.jp

 ところで魯迅のほうだが、一九二〇年以後には北京大学と北京高等師範学校の講師を兼ねていたので、北京大学には学長の蔡元培、銭玄同、それに魯迅と弟の周作人の四人のエスペラント支持者がいたことになる。彼らの立案によって、北京大学に世界語(エスペラント)科が設けられたのであろう。そうした北京大学の自由で新しい学術研究状況として、上海にいたエロシェンコが召喚されたと見なせよう。

 魯迅はエロシェンコの名前も耳にしていなかったが、新聞で日本から追放されたことを知り、第一創作集『夜あけ前の歌』(叢文閣、一九二〇年)を読み、その中の「「せまい檻」を始めとする三編を『新青年』などに翻訳掲載している。そしてエロシェンコが同居するようになると、第二創作集『最後の溜息』の中の童話劇「桃色の雲」の翻訳を進めた。それが最初にふれた新潮社の「文芸叢書」第二編として刊行されるのである。エロシェンコの北京大学での授業や講演は藤井の「北京大学 “ 教授 ”」に詳しいので、必要とあれば、そちらを参照してほしい。

(『夜あけ前の歌』)(『最後の溜息』)

 しかしエロシェンコにとって、北京は少しも慰められる場所ではなく、日本を恋しく思い続けていた。日本の代わりのように、一九二二年八月にフィンランドのヘルシンキで開かれる第十四回世界エスペラント大会へ出席し、本探索1307でふれたように、その帰途、モスクワの和田軌一郎を訪ね、自らの故郷へと帰っていくのである。


 [関連リンク]
 過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら