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古本夜話1317 エロシェンコ、正木ひろし『近きより』、福岡誠一

 エロシェンコの人脈の中にはエスペラントや社会主義運動関係者以外にも親しい人たちがいて、高杉一郎は『夜あけ前の歌』において、「あたらしい友だち」という章を設け、大正九年に東京大学に入学した正木ひろしや福岡誠一の名前を挙げている。

(『夜あけ前の歌』、叢文閣)

 正木は芝のユニテーリア教会での長谷川如是閑や大山郁夫などの講演会で、エロシェンコと知り合った。高杉は二人の並立写真を示したうえで、次のように書いている。

 その日から、エロシェンコは正木をよく訪ねてくるようになった。新宿から大久保は百人町まではそんなに遠くないためか、昼夜を問わず訪ねてきて、正木を散歩に誘いだした。そして、夜は昼間よりも足早に、さっさとあるいた。ことにエロシェンコがよろこぶのは、風の日の戸山ヶ原の散歩だった。風のつよい日には、あたりの樹木がざわついて、盲人のエロシェンコには、宇宙感のようなものが具象的に、そして動的に把握できるらしかった。

 この記述が何に基づくのかは参考文献に正木の著書が挙げられていないので、詳らかではないけれど、掲載写真とともにエロシェンコと正木の夜の闇の中における道行のようなシーンを彷彿とさせる。それにたまたま正木ひろしの、昭和二十九年の「三里塚事件」を扱った『ある殺人事件』(カッパブックス、昭和三十五年)を入手したばかりで、その裏カバーの自己紹介にあるように、戦後、正木は刑事弁護士としてよく知られていた。『近代出版史探索Ⅲ』599のチャタレイ裁判、八海事件、菅生事件などにも関与し、『裁判官』『検察官』(同前)も著している。

  

 しかし私の正木への関心は弁護士というよりも、昭和十二年から二十四年にかけて、個人誌といえる『近きより』を発行し、戦時下において軍国主義と官僚主義に抗し、ファシズムや東条首相を批判し続けてきた表現者、出版者としての正木である。しかもその協力者はともにエロシェンコとの親交を結んだ福岡誠一だったと推測される。福岡もまた北京のエロシェンコを訪ね、やはり高杉の著書に並立写真を残している。

(弘文堂版)

 エロシェンコの『夜あけ前の歌』『最後の溜息』の編集は秋田雨雀によるが、校正などの雑務は福岡が担当していたし、『人類の為めに』のほうのエスペラントの日本語訳はやはり福岡が担っていた。福岡がエロシェンコと急速に親しくなったのは、彼自身が半盲に近い強度の近視で、自分も失明するのではないかという不安につきまとわれていたからで、それをエロシェンコにうちあけたことによっている。戦後になって福岡は『リーダーズ・ダイジェスト』編集長をつとめているようだが、それはエロシェンコや正木との関係と無縁ではないように思われる。

(『夜あけ前の歌])(『最後の溜息』)(『人類の為に』)

 この『近きより』の弘文堂版はずっと未見だったけれど、昭和五十四年に旺文社文庫から全五巻として刊行されるに至り、同年の毎日出版文化特別賞を受賞している。それは待たれていた文庫化とも考えられるし、私にしてもそれによって実質的に『近きより』を手にすることができたのである。ただ残念ながら、第一巻を購入しただけで、いずれ全巻に目を通すつもりでいたのだが、旺文社文庫そのものが絶版断裁処分となり、全巻を揃えていない。せめて「主要登場人物略歴」が収録された第五巻だけでもと思い、留意してきたけれど、古本屋でも見出していない。そのためにここでは第一巻を参照するにとどめることを了承されたい。

(旺文社文庫版)(第五巻)

 『近きより』創刊号の書影が裏表紙に示されるとともに、最初に「発刊の言葉」が挙げられている。それは「私はいろいろな意味から雑誌を出して見たくなった。/私の本質の中にある公共心と社交性とが私の心臓を雑誌発行の方へと駆りたてていたのはかなり長い前からであった」と始まっている。それは「公共の利益が私欲や無神経のために踏み躙られている」ことに「堪え難い憤りを感じ」たからだとされる。彼のいう「社交性」に関してはひとまずおくにしても、現在の言葉に置き換えれば、昭和十年代の戦時下においてのコモン論とでもいえようか。

 「私は私の知人三千余名に対し、私の信念に従って呼びかけ、生命の交流を生ぜしめることが、現在の私に許された生命実現の有力な道であると確信する」。そして現在の日本を風靡している「いろいろなスローガン」が挙げられ、「公論に関係のない内閣が出現したり」する状況が問われていく。それが「近々抄」の始まりであり、第一巻はその時代ならではの偏見と誤謬はあるにしても、そのようなトーンで続いていく。

 巻末の「解題」によれば、編集兼発行者は正木旲(ひろし)、発行所は正木法律事務所内「近きより」発行所、発売所は栗田書店、毎号二〇余ページから五〇ページ弱、寄稿者は二十人ほどである。正木の個人誌としての立ち上がりは三千部で、取次の栗田書店を通じて流通し、書店でも販売されていたことになる。しかし『近きより』が戦後まで持続したことを考えれば、相次ぐ発禁削除処分にもかかわらず、それなりに読者も固定化したと見なすべきで、個人誌としての奮闘は特筆すべきであろう。

 それがかつてのエロシェンコとの邂逅にも起因しているのかはわからないが、時代と人の出会いが無縁でなかったことは間違いないだろう。


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