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古本夜話1340 石井敏夫コレクション『絵はがきが語る関東大震災』と写真ジャーナリズムの勃興

 前回の関東大震災絵葉書のことについて、もう一編書いておきたい。
 
 絵葉書については『震災に巻けない負けない古書ふみくら』(「出版人に聞く」6、論創社)の佐藤周一が最も詳しいので、存命であれば、彼に問い合わせることができるのだが、残念なことに同書刊行後に急逝してしまった。そこで確かかつて関東大震災絵葉書に関する一冊が出ていたはずだと思い、「日本の古本屋」で検索してみると、それが木村松夫、石井敏夫編著『絵はがきが語る関東大震災』(柘植書房、平成二年)だと判明し、ただちに入手した。A4判上製一八九ページで、カラーページの口絵写真は一四ページに及び、前回関東大震災絵葉書は大量生産されたけれど、種類は多くなく、多種多様ではなかったのではないかとの推測を述べておいが、そうではなく、カラー絵葉書も含め、予想以上にバラエティに富んでいたとわかる、

震災に負けない古書ふみくら―出版人に聞く〈6〉 (出版人に聞く 6)   

 同書は石井敏夫のコレクションからなり、そこには「関東大震災絵葉書」(日本福音ルーテル博多教会)、「日本未曽有関東大震災実況絵葉書」(大阪堺筋栗本本店)、「東京市大震火災後ノ惨状」(発行所不明)、「思ひ出の大震災記念」(松本幸盛堂)などの、いずれも大正十二年九月一日付の「絵葉書封筒」が示され、そのようなパッケージで、全国各地で流通販売されていた事実を教えてくれる。しかも「日本未曽有関東大震災実況絵葉書」は前回の紀田順一郎によれば、「東京浅草仲見世の業者」による刊行とされているが、ここでは「大阪堺筋栗本本店」で、同種のものが東京だけでなく、全国にわたって広範に出回っていたことを示唆していよう。

 それらに加えて、『絵はがきが語る関東大震災』は巻末の「図版索引」に明らかなように、多くの未見の写真絵葉書を収録している。その中で、私の関心から抽出すると、「浅草公園十二階の惨状」と「倒壊した日本橋丸善」で、それらは近代日本の象徴的な文学的トポスが一瞬のうちに崩壊してしまったことを物語っている。浅草十二階に関しては本探索で後述するつもりだし、丸善については拙稿「尾崎紅葉と丸善」(『書店の近代』所収)などで言及しているので、リアルタイムでそれらの崩壊を体験した人々の衝撃は想像する以上に大きかったのではないだろうかと考えてしまう。

書店の近代―本が輝いていた時代 (平凡社新書)

 これらの石井敏夫の長年にわたるコレクションによるもので、彼の「あとがき」によれば、それは昭和四十年代の中央大学生時代に、神田の古本屋で「惨状生なましい数葉の震災絵はがきを見つけたときのショック」に端を発している。そして絵はがきのコレクションとしては類例を見ないほどの収集であり、ここに出版が試みられたことになる。そこに共編者の木村松夫は解説としての「震災絵はがき物語―もうひとつの写真ジャーナリズム史」を寄せている。木村は震災絵葉書の制作に関して、主として光村印刷所が手がけたと指摘している。それは東京に大小合わせて多くの印刷工場があったが、大半が焼けてしまい、まったく被害がなく、しかも平板印刷設備を所持していたのは光村印刷所と大江印刷所だけだった。以前から絵葉書や絵画書を発行していた石川商店、尚美堂は震災絵葉書を売り出そうとして、光村印刷所に発注した。そのために過剰な設備投資で苦しんでいた光村印刷所は現金取引で資金繰りが楽になり、しかも三省堂、冨山房などからも注文が入り、財をなしたようだ。

 絵葉書だけでなく、『大正十二年大震災記念写真帖』(山田商店)、『大正大震災大火之記念』(毎日通信社)、『関東大震災写真帖』(時事通信社)、『大正震災志写真帖』(内務省社会局)などに加えて相次いで刊行されて、新聞や雑誌の特集号や増刊号は多くのカメラマンを輩出させ、写真ジャーナリズムの勃興へとつながっていく。それらは『近代出版史探索Ⅵ』1115の國際情報社の『国際写真情報』、大正通信社の『国際画報』の創刊を促していったのである。

(『大正十二年大震災記念写真帖』) (『大正震災志写真帖』)
(『国際写真情報』)(『国際画報』)

 しかしその一方で、死体の山を映し出した絵葉書は発売禁止となり、街頭での販売は見かけなくなった。木村が引いている大震災経験者の証言によれば、震災絵葉書ブームが去った後は神田の古本屋街、さらにその後は浅草の仲見世の裏手、下谷の池の端通りなどの少しばかりいかがわしい店で売られていたという。おそらくそれは前回推測したように、全国各地の古本屋、赤本屋、露店などにも広範に拡がっていったのであろう。

『絵はがきが語る関東大震災』第一部Ⅲの「累々たる屍―下町の惨劇」に収録されたものは死体のオンパレードともいうべき写真の集積であり、「本所被服廠の惨状」などは二万から四万人の死を伝えている。また「吉原遊郭付近の死体」の数種類に及ぶ同じ大量死を写真に収めている。おそらく発禁処分後はポルノグラフィと同じようにして売られていたはずで、いかがわしい店で売られていたとの証言はそれを肯っていよう。それは現在に引きつけて考えれば、スプラッター映画のシーンのように受容されていたことを物語っているのかもしれないし、写真ジャーナリズムの勃興もそうした事実とリンクしていたことを忘れるべきではないだろう。


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