『大日本』から『日本及日本人』『我観』とたどってきたが、本探索1334で満川亀太郎が『三国干渉以後』で語っていたように、これらは「当時唯一の高級政治雑誌『太陽』」を範とする四六倍判を踏襲していたのである。
その『太陽』創刊号も近代文学館の「複刻日本の雑誌」に含まれているけれど、同1335の『日本及日本人』と同じく、これも浜松の典照堂で明治四十年の博文館創業二十週(ママ)年記念『太陽』増刊『明治名著集』を入手しているので、こちらを取り上げることにしよう。かつて拙稿「正宗白鳥と「太陽」(『古雑誌探究』所収)で、やはり創業十週年臨時増刊の『太陽』の明治文学特集に言及しているが、それから十年後に刊行されたものである。
前回の菊判と異なり、本誌と同じ四六倍判、二段組、口絵写真、各社広告、本文と「博文館図書目録」合わせて七〇〇ページの大冊となっている。表紙絵はエジプトのピラミッド壁画を擬し、編集長は鳥谷部銑太郎=春汀で、没するまで『太陽』の主筆を務めるとあり、この『明治名著集』刊行後の明治四十一年に亡くなっている。その事実を考慮すれば、この『明治名著集』の企画コンセプトも鳥谷部に多くを負っているのだろうし、そのリードに当たる一文も彼によると思われるので、ここに引いておこう。
開国維新以後明治二十年までは、之れを称して明治文明の建設自体と謂ふべし。此の時代に現はれたる思想上の代表的名著を集大成したるものは、即ち本著なり。明治年間の名著は、寧ろ明治二十年以後の出版業界に於て之れを求め得べしと雖も、明治文明の基礎を作りたる名著は、却つて本書に於て之れを発見し得べ機を信ず。欧州思想の始めて日本に輸入したるに際し、日本の先覚者が如何なる態度を以て之れに触接し、之れを攝取し、之れを咀嚼し、且つ如何なる方式に依りて之れを発表したるかを回顧するは、明治文明の由来を尋繹するに於て少補なしと言ふべからず。是れ本館創立二十週(ママ)年の記念出版として本書を刊行したる所以の微意なり。
かくして「凡例」でも確認されているように、博文館創業、すなわち明治二十年以前の思想界の名著がここに収録されることになる。それらの著者とタイトルだけは挙げておくべきだろう。なお番号は便宜的に降ったもので、年号不明もあることを了承されたい。
1 | 福澤諭吉 | 『学問のすゝめ』 | 慶応義塾出版局 明治五~九年 |
2 | 西 周 | 『百一新論』 | 私家版、明治七年 |
3 | 田口卯吉 | 『日本経済論』 | 経済雑誌社、明治十一年 |
4 | 加藤弘之 | 『人権新説』 | 私家版、明治十五年 |
5 | 中江篤輔 | 『民約訳解』 | 仏学塾、明治十五年 |
6 | 鳥尾小弥太 | 『王法論』 | 大道社、明治十六年 |
7 | 井上哲二郎 | 『倫理新説』 | 同盟社、明治十六年 |
8 | 馬場辰猪 | 『天賦人権論』 | 自家版、明治十六年 |
9 | 藤田重吉 | 『文明東漸史』 | 聞天楼、明治十七年 |
10 | 伊藤圭介 | 『救荒植物集説』 | 『文部省報告官報』 |
11 | 坪内逍遥 | 『小説神髄』 | 松月堂、明治十八年 |
12 | 外山正一 | 『社会改良と耶蘇教との関係』 | 『同人社文学雑誌』 |
13 | 西村茂樹 | 『日本道徳論』 | 求諸已斎、明治十九年 |
14 | 徳富猪一郎 | 『新日本の青年』 | 民友社、明治十八年 |
15 | 中村正直 | 『漢学不可廃論』 | 『明六雑誌』 |
16 | 〃 | 『思想を管理する要を講ず』 | 〃 |
1の福澤『学問のすゝめ』や11の坪内『小説神髄』はともかく、他の人々の著作に関しては、『明治啓蒙思想集』を始めとする筑摩書房の『明治文学全集』にいくつかの収録があることは承知しているが、不勉強というか、またこれまで必要に迫られなかったので、残念ながら読むに至っていない。
だがこれらの著書と著作を近代出版史の視点から見てみると、1の福澤、2の西、4の加藤、13の西村、15,16の中村が明六社社員で、『明六雑誌』の寄稿者だったことは見逃せない事実であろう。『明六雑誌』は明治七年から八年にかけて、売捌所=取次を報知堂とし、まさに明治初期の総合的啓蒙思想の雑誌として全四三号が刊行され、明治七年には二五号まで出され、毎号三千部以上が売れ、しかも多額の収益を得たとも伝えられている。
(『明六雑誌』)
とすれば、日本近代の民間の啓蒙思想誌の原型は『明六雑誌』に求められ、それを範として博文館の『太陽』が創刊され、さらに判型を同じくする『大日本』『日本及日本人』『我観』などへと継承されていったようにも思える。しかも『明六雑誌』の取次が明治五年創刊の『郵便報知新聞』の売捌所の報知堂だったことは象徴的で、まだ出版社・取次・書店という近代出版流通システムは誕生しておらず、それは明治二十年の博文館の創業、それに続く東京堂の設立を待たなければならなかったのである。
そのためにこれらの「明治名著」にしても、出版や掲載は大半が私家版、それに準ずるリトルプレス、リトルマガジンによっていたこともあり、ほとんどが絶版状態に置かれ、この『明治名著集』の出版によって、一堂に会したのではないだろうか。先の拙稿で正宗白鳥の言として引いておいたが、明治二十年代半ばには近代文学を誕生させた坪内逍遥の『当世書生気質』や二葉亭四迷の『浮雲』にしても、人気が衰え、絶版になっていて、明治三十年の『太陽』増刊の小説特集号に収録されたことで、初めて読むことができたとされる。
小説でさえも、そうだったのだから、思想名著などに関してはいうまでもないだろう。おそらくこの『明治名著集』にも、白鳥のような読者がいたにちがいなく、それゆえに『太陽』のコンセプトと系譜も引き継がれていったのだろう。
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