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古本夜話1344 昭和の『太陽』臨時増刊『明治大正の文化』

 『太陽』臨時増刊『明治名著集』と異なり、判型は菊判の「博文館創業四十周年記念」として、やはり増刊の『明治大正の文化』が出ている。これも浜松の典昭堂で一緒に買い求めてきたものである。昭和二年六月の発売だから、おそらく大正六年にも「同三十周年記念」の臨時増刊『日本と世界』が刊行されているはずだが、こちらは未見だ。

(昭和二年)(大正六年)

 それにゆえに明治三十年と四十年、大正を飛ばして昭和二年の三冊の『太陽』臨時増刊を見ていることになる。それは一冊目が明治文学集、二冊目が明治名著集、このふたつの特集は近代出版社の雄としての博文館、それを表象する高級雑誌『太陽』の看板を背負った文学、思想特集に位置づけられよう。

(明治三十年)(明治四十年)

 ところが昭和を迎えての三冊目は、実際には四冊目であるにしても、「明治大正の文化」特集で、気負ったニュアンスが薄れ、昭和の総合雑誌のイメージに近づいていると思われる。その判型や厚さにしても『中央公論』『改造』『文藝春秋』などの昭和の総合雑誌のフォーマット感が強く、かつての「帝国」と重なる『太陽』の面影は薄くなっている。

 昭和二年といえば、『近代出版史探索Ⅵ』1098の春陽堂『明治大正文学全集』が刊行され始めていたし、特集のオリジナリティは主張できない。それは編輯兼発行人が『同Ⅴ』880の長谷川誠也であったことも影響していよう。彼は明治三十年の最初の『太陽』増刊が刊行された時に、『太陽』編集者となり、高山樗牛や島村抱月に代わる編集者兼評論家の時代もあったようだが、博文館から出版事業研究のためにイギリスへ留学し、大正時代から博文館幹部、早大講師となり、編集や評論からも遠ざかっていたとされる。

  

 これらの事実からすると、奥付に記された長谷川の編輯兼発行人は名義上のもので、「編輯室より」を書いている「一記者」とは別人だと考えられる。しかも『博文館五十年史』の昭和二年のところには「『太陽』の廃刊と編輯局主幹更迭」との見出しで、次のように述べられている。

 『太陽』の創刊は明治二十八年一月にて、三十四年間に亘り、雑誌界の権威と仰がれたが、終に昭和二年十二月に廃刊し、主筆平林初之輔、編輯部員長谷川浩三、料治熊太、高橋菊二郎、林征木の五氏は皆辞任した。同時に長谷川誠也氏も編輯局主幹を退いたので、「文芸倶楽部」主任森下岩太郎氏が編輯局主幹と為つた。

 森下岩太郎は『近代出版史探索』94の森下雨村に他ならず、彼は大正九年の『新青年』創刊の編集に携わり、海外探偵小説の紹介、同95の『世界大衆文学全集』などの企画編集、同96の江戸川乱歩のデビューにも関わり、昭和に入って、博文館は『太陽』というよりも『新青年』のほうが看板になっていたと見なせよう。

(創刊号) (『世界大衆文学全集』67)

 さて平林初之輔と森下雨村の名前を見たわけだから、「明治大正の文化」に探偵小説も挙げられているのではないかと期待したが、それはない。明治大正に関する文化項目は万遍なくリストアップされ、五十七にも及んでいるので、すべてを紹介できないけれど、本探索でお馴染みの人たちが二十人以上含まれていることだけは記しておこう。しかも長谷川誠也が晩年の関心事であったのか、「国語表記法の問題」を寄稿しているのは、それほど必然的な明治大正に関するテーマと思われず、アリバイ的に加えられた印象が強い。

 掉尾を飾っているのは先述の編集者の林征木による「明治より大正への国勢の膨張」で、これは「国勢指標統計図表」の十九図を含む、明治大正六十年間に於ける日本帝国の発展をたどったもので、この特集の色彩と異なる社会科学的分析であるけれど、『太陽』に最もふさわしい力作のように映る。それが『太陽』の編集者によるもので、末尾に置かれていることも象徴的でもある。おそらくこの「明治大正の文化」特集の実質的編集者はこの林だったのではないだろうか。

 それに意外なことに林は『日本近代文学大事典』にも立項され、早大仏文科卒、『早稲田文学』同人、平林のもとで『太陽』の編集に携わるとある。なおこれは未見だが、『平林初之輔遺稿集』(平凡社、昭和二年)の編集は林の手になると推測される。このような博文館と『太陽』をめぐる新しい編集者と人脈の関係から見て、すでに『太陽』の時代は終わり、新たな雑誌と出版の時代へと移行しつつあったことが伝わってくるのである。

(『平林初之輔遺稿集』)


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