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古本夜話1348 三つの『家庭雑誌』

 もう一冊、博文館の雑誌があるので、これも取り上げておく。それは『家庭雑誌』で、大正十四年四月増大号である。菊判二〇八頁、編輯兼発行人は中山太郎治、すなわち『近代出版史探索』49などの中山太郎に他ならない。

(『家庭雑誌』大正13年1月号)

 表紙は寺島紫明が描く「輝く時」と題された若い女性のクローズアップで、口絵写真は「嬉しき日」とある着付をしている花嫁の姿、華族などの三組の「名士の結婚」となっている。その五つの「現代結婚号」と題された大見出しの内容を挙げてみる。

 *職業婦人の結婚研究
 *成功した結婚と失敗した結婚の実例
 *四十男と三十後家
 *婚期にに在る女性の注意
 *荘重で簡素な実用本位の婚礼調度三種

 これらにそれぞれ五本から十本以上の当時の著名人たちの原稿が寄せられ、中山も後の『日本婚姻史』の著者となる予兆のように、「我国に於ける婚姻の種々相」を書いている。それは「本誌記者」名での十本のコラムからなる「結婚と奇習」も中山によっているのだろうし、彼が女性史を中心とする民俗学研究へ向かうのも、この『家庭雑誌』の編輯者の体験がその原動力となったのかもしれない。

 本探索1331で見たように、明治三十九年の実業之日本社による『婦人世界』に始まって、四十三年の同文館『婦女界』、大正五年の主婦之友社『主婦之友』、同九年の講談社『婦人くらぶ』の創刊が続いていたし、博文館の『家庭雑誌』も、そのような婦人雑誌ブームの中に置かれていたはずだ。ところが『博文館五十年史』は大正四年のところに「『家庭雑誌』の創刊」として、創刊号の書影、及び「六月一日『家庭雑誌』を創刊した。四六判の本文二百五十八頁、定価十銭で毎月一回発行で、編輯主任は栃木県足利郡梁田の人、早稲田大学出身である」と記されているだけだ。巻末の「出版年表」を確認すると、大正十五年に廃刊となっていることがわかる。それでも十年以上にわたって刊行されていたのであり、『家庭雑誌』も大正時代の婦人雑誌の一角を占めていたことになる。

   

 しかし前々回の徳富蘇峰『好書品題』巻末の「民友社小史と出版の図書」において、「『国民之友』の刊行が、明治文化の促成に寄与したことは言を須たず、『家庭雑誌』を刊行して、婦人醒覚の先唱者となり」との一文が見えていたのである。しかも近代文学館の『複刻日本の雑誌』にはそれも含まれていた。明治二十五年創刊号は『国民之友』と相通じるA5判、本文三八ページの体裁だが、表紙には花や庭などのイラストもあしらわれ、『家庭雑誌』のコンセプトを発信しようとしているだろう。

 (『好書品題』)(『家庭雑誌』創刊号)(創刊号)

 だが発行所は家庭雑誌社となっていて、発行兼印刷人は垣田純朗、編輯人は塚越芳太郎で、一見しただけでは蘇峰の民友社の雑誌だとわからない。民友社と家庭雑誌社が京橋区日吉町と住所を同じくすることによって、ようやく両者が同一だと判明する。それは明治半ばの時代にあって、「国民」と「家庭」は別のカテゴリーに属し、その冒頭の社説の「家庭教育の事」が示しているように、「国民」以上に「家庭教育」が必要とされていたのかもしれない。同誌は明治三十年までに全一九九冊が出され、『国民之友』の姉妹的役割を果たしたとされる。

 ところがややこしいことに、『日本近代文学大事典』第五巻「新聞・雑誌」にはこの家庭雑誌社版に続けて、もうひとつの『家庭雑誌』も立項されている。それは本探索1217などの堺利彦の由分社が明治三十六年から四十年にかけて全五五冊刊行したもので、こちらは社会主義を標榜していたが、家庭生活を啓蒙し、近代化をはかろうとしていた。それに堺に続いて、西村渚山、深尾韶、大杉栄も編集に携わり、版元も家庭雑誌社、平民書房と移り、社会主義的色彩を有する家庭向け雑誌として独自の役割を果たしたとされるが、こちらは未見である。しかし博文館版は立項されていない。

(由分社版)

 つまり『家庭雑誌』は家庭雑誌社=民友社に始まり、堺の由分社を経て、博文館へと継承されていったことになる。当時の雑誌商標権やそのタイトルをめぐる出版権を詳らかにしないけれど、後発の由分社や博文館がまったく蘇峰の民友社と関係なく、創刊したとは思えない。何らかの権利委譲、バーター取引、あるいは金銭的問題も含めて処理された結果、このような三つの『家庭雑誌』の成立が可能になったと推測するしかない。そこにはまた三つの『家庭雑誌』における編集者問題も必然的に絡んでいたように思われる。


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