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出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1354 百瀬晋、高木六太郎、『飲料商報』

 宮嶋資夫の『遍歴』は本探索1289の『エマ・ゴールドマン自伝』ではないけれど、登場人物人名事典を編んでみたいという誘惑にかられるが、それは断念するしかない。そうはいっても『日本アナキズム運動人名事典』が代行してくれる人々も多いからだ。それでも気になる人物は機会を得て取り上げていきたい。

エマ・ゴールドマン自伝〈上〉 エマ・ゴールドマン自伝〈下〉 日本アナキズム運動人名事典

 その一人が前回の最後のところでふれた百瀬晋である。宮嶋は義兄の大下藤次郎が残した小石川の水彩画研究所に移るに際して、都新聞の通信員を断念するつもりでいたところに彼が登場する。

 小石川に越せば、私の通信員という職業の障りとはなるが、それも止むを得ないと思つた。所が丁度工合よく売文社に『飲料商報』といふ、清涼飲料水製造機械商の機関雑誌の編輯を頼みに来て、編輯を百瀬晋君が引受けることになり、私は記事を受け持つ事になつた。百瀬君は、その後『カクテールの作り方』といふ本を出したが、オペラが好きで、そのために伊太利語を学び、伊庭孝とも親しくして、その道には深く通じてゐるが、どうしたものか、造詣を発表しない。惜しい事と思つてゐる。

 この百瀬は後にもう一度言及され、彼が酒を飲まない徹底した無神論者で、夕方には南天堂できちんと金を払って食事をし、それから整頓された家に帰ってイタリア語の勉強をしていた。もちろん百瀬は『日本アナキズム運動人名事典』にも立項されているし、南天堂グループの一人として、寺島珠雄『南天堂』(皓星社)にも出てくるし、本探索1351の柏木孝法『千本組始末記』(海燕書房)にはその写真も掲載されている。

南天堂 松岡虎王麿の大正・昭和  

 したがって詳細な百瀬のプロフィルはそれらを参照してほしいのだが、ここで言及したいのは宮嶋が挙げている百瀬の『カクテールの作り方』である。これは彼の記憶違いで、正確には『趣味のコクテール』で、昭和二年に金星堂から刊行されている。これも長きにわたって探しているけれど、出会えていない一冊に他ならない。それは『近代出版史探索』19の佐藤紅霞が戦後になって『世界カクテル大全』を上梓しているので、佐藤は百瀬のコクテールの「造詣」を継承したのではないかと考えていたのである。それに加えて、金星堂と百瀬とコクテールも三大噺のようだが、アナキストたちによる実用書の系譜をたどってみたい気にもさせられる。例えば、『日本アナキズム労働運動史』(現代思潮社)の著者である萩原晋太郎は『電気工事の仕方』『電気機器の扱い方』(いずれも金園社)を刊行している。萩原以外にもそのような実用書を著しているアナキストはいるのではないだろうか。

  (『電気工事の仕方』)

 ところで宮嶋と百瀬が編集した『飲料商報』の関係はそれだけに終始していたのではなく、『坑夫』の自費出版へとも結びついていく。『飲料商報』の編集を依頼したのは高木六太郎という人物だった。彼は百瀬との関係で、『近代日本社会運動史人物大事典』の「人名索引」に名前が見えているだけだが、宮嶋によれば、「相当の機械屋の主人」であった。つまり『飲料商報』は当時の飲料ニュース誌のような印象を与えるけれども、まさに「清涼飲料水製造機械商の機関雑誌」だったのである。

 近代日本社会運動史人物大事典

 その高木は社会主義者の演説を聞くことを好み、幸徳秋水、堺利彦、西川光二郎の演説をよく聞き、社会主義に共鳴していた。それで雑誌の編輯を堺の売文社へと持ちこんだのである。宮嶋は書いている。「私が『坑夫』の話をすると快く彼は金を出してくれた。私がその社をやめてからも、百瀬君の手引で、無政府主義者やそれに近いものが記者となつた。五十里幸太郎、和田信義、高山辰三、其他等々、飲料商報は、無政府主義者の失業救済所の如き観があつた」と。

 ここで私たちは、近代出版史や雑誌史にも名前は残されていないけれど、『飲料商報』という雑誌が大正時代のひとつのアジールであったことを知らされるのである。おそらく明治から大正にかけての時代において、高木六太郎や『飲料商報』のような人物やメディアの存在が多く根づいていたにちがいない。そうした歴史から見えないかたちで社会主義も支援されていたのであろう。

   (『飲料商報』)

 しかし昭和三年に百瀬の表紙デザインによって創刊された『矛盾』は、柏木の『千本組始末記』に書影も掲載され、緑陰書房からの復刻も見ているけれど、もはや『飲料商報』には出会えないだろう。そもそも誰も注視してこなかったであろうし、入手も不可能だと思われる。それを示すように、「アナキズム運動史関連機関誌リスト一覧(1912~1940)」(『日本アナキズム運動人名事典』所収)にも、『飲料商報』は見当たらない。


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