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出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1363 垣内廉治『図解自動車の知識及操縦』とシエルトン『癌の自己診断と家庭療法』

 実用書に関して、出版社、著者、翻訳者の問題も絡めて、もう一編書いてみたい。実用書の出版史は『全国出版物卸商業協同組合三十年の歩み』(昭和五十六年)にその一角をうかがうことができるけれど、こちらの世界も奥が深く、謎も多いので、とても細部までは見通せない。

 そのような二冊をこれも浜松の時代舎で入手している。ひとつは昭和五年に大鐙閣から刊行された工学博士垣内廉治著『図解自動車の知識及操縦』で、菊判函入、本文、付録合わせて五六〇ページ余、図版も多く、定価三円五十銭である。昭和円本時代に刊行された、運転ならぬ「操縦」実用書としては高価だが、その内容は自動車の機関、構造、電気学にも及んでいる。それゆえにこの時代にあって、同書は工学書、専門書というべきかもしれない。

 垣内はその「序言」で述べている。「時世の神秘と交通機関の発達は相離るるべからざる関係」にあり、「将来文化的、民衆的交通機関として最も発達すべき可能性と条件」を有するのは「自動車を以て第一に挙げざるを得ない」し、「日本は現在四万台に過ぎざるも、年々の増加率は最近駭目すべきものがあり、一年一万台以上の純増加率を示し、数年を出でずして十万台を突破するに至るは明らかである」と。

 現在の乗用車だけで六千万台を超える保有台数から考えれば、信じられないほどだが、ほぼ一世紀前には「四万台に過ぎざる」自動車状況であったのだ。そのような時代に、この『図解自動車の知識及操縦』といった書籍を刊行することは冒険であり、それなりの出版助成金としかるべきまとまった買い上げ先がなければ、成立しなかった企画だと思われる。それに大鐙閣は拙稿「天佑社と大鐙閣」(『古本探究』所収)を始めとして、本探索でも繰り返し言及しているが、関東大震災で被害を受け、『近代出版史探索Ⅱ』311の創業者の久世勇三も身を引かざるをえなかったはずだ。

古本探究

 それは『図解自動車の知識及操縦』の奥付にも顕著で、かつて発行所住所として大阪と東京のふたつが記載されていたが、神田区今川小路の一ヵ所だけになり、発行者も榎本文雄となっている。この名前もここでしか目にしていないし、久世の代わりに発行者にすえられた人物と見なせよう。ただ留意すべきは隣に印刷所の山縣純次が並び、出版社、発行者と住所を同じくしていることからすれば、大鐙閣は実質的に印刷者の山縣の傘下にあるとわかる。

 その事実から考えると、従来の大鐙閣のイメージと異なる実用書にして工学書である垣内の著書は、山縣を通じて出版に至ったと見なすべきだろう。当時の出版社は実質的に行き詰まってもいきなり破産とはならず、様々な事後処理をめぐって金融と出版人脈が入り乱れ、それが出版物も含めて多くの謎を発生させていくのであり、この場合もそうした一例だと推測される。

 もう一冊は米国医学博士シエルトン『癌の自己診断と家庭療法』で、昭和十年に洗眞堂書房から刊行されている。その住所は赤坂区青山北町で、発行者は國谷豊次郎となっている。こちらは著者、出版者、版元と三拍子揃って不明である。B6判函入、上製二〇八ページの癌の自然療法、通称シエルトン療法に関する専門書といっていいだろうし、単なる医学実用書とも異なる趣も備えている。それでもここで取り上げたのは、訳者がポール・ケート、戸川寛二であることによっている。ポール・ケートは本探索1300で既述しておいたように、IWWのヒル・ヘイウッドの自伝『闘争記』、及びアプトン・シンクレア『オイル!』の高津正道と並ぶ共訳者であるからだ。

 闘争記―I.W.W.首領ヘイウッドの手記 (昭和5年)  石油!

 そこでポール・ケートのプロフィルは不明だと述べておいたが、ここでは第一高等学校教授とあるけれど、この一高教授のポールが同姓同名の別人とも考えられる。ただ共訳者の戸川の方はまったくわからない。それに奥付の「版権所有」=検印のところには Paul Cate という署名がなされているだけで、戸川の印は見当たらない。これはポールがシエルトンを通じて、同書の版権を得たということを意味しているのだろうか。定価一円とあるのだが、医学実用書としても書店の店頭で売れるような一冊ではないし、やはり癌の自然療法のプロパガンダ本、何らかのまとまった買い上げがあって翻訳刊行されたと見なすべきだろう。

 とすれば、この戸川のほうはそうした自然療法に携わる医学関係者と考えられるし、そのためにポールの第一高教授という肩書が利用されているのではないだろうか。本探索でも出版社・取次・書店という近代出版流通システムとは別なオルターナティブの流通販売にも言及してきているが、今回の『図解自動車の知識及操縦』にしても、『癌の自己診断と家庭療法』にしても、とても書店の店売商品のようには見受けられない。そこにも実用書の謎が潜んでいるようにも思われる。


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