出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1376 芥川龍之介『支那游記』

 前回、芥川龍之介の『江南の扉』にふれたが、その後、浜松の典昭堂で同じく芥川の『支那游記』を見つけてしまった。改造社から大正十四年十月初版発行、入手したのは十五年五月の訂正版である。それは函無しの裸本で、褪色が激しく、背のタイトルも著者名も判読できなかったけれど、表紙の紅色だけがその名残りをとどめているかのようだった。四六判上製二六五ページにもかかわらず、芥川が『支那游記』にこめた愛着、それにコットン紙を使っているので、厚さは四センチに及び、装幀、造本へのこだわりを感じさせる。

 

 そのことを伝えるごとく、この一冊は「薄田淳介氏」に捧げられ、小穴隆一画、伊上凡骨刻、神代種亮校とある。薄田はいうまでもなく泣菫、小穴は常に芥川の近傍にいて、その装幀を担った画家、伊上は紙面設計の木版師、神代は「校正の神様」と称された人物で、『支那游記』は小説ではないが、満を持して送り出された芥川の入魂の一冊のように思われる。巻末には詳細な「芥川龍之介著作目録」も添えられていることも、それを物語っていよう。

 そうした思い入れは芥川の「自序」にも明らかなので、ルビは省き、それを引いてみる。

 「支那游記」一巻は畢竟天の僕に恵んだ(或は僕に災ひした)Journalist 的才能の産物である。僕は大阪毎日新聞社の命をうけ、大正十年三月下旬から同年七月上旬に至る一百二十余日の間に、上海、南京、九江、漢口、長沙、洛陽、北京、大同、天津等を遍歴した。それから日本へ帰つた後、「上海游記」や「江南游記」を一日に一回づつ執筆した。「長江游記」も「江南游記」の後にやはり一日に一回づつ執筆しかけた未完成品である。(中略)しかし僕のジヤアナリスト的才能はこれ等の通信にも電光のやうに、――少なくとも芝居の電光のやうに閃いてゐることは確かである。

 ここに『支那游記』の期間が「一百二十余日」とあるのを見て、思わずサドのソドムの『ソドムの百二十日』(佐藤晴夫訳、青土社)を連想してしまった。それはたまたま四方田犬彦の大作『パゾリーニ』(作品社)を読んでいて、パゾリーニの遺作が『ソドムの百二十日』を原作とする『サロ』であったことにもよっている。また岡本かの子が芥川をモデルとする「鶴は病みき」(岡本かの子全集』第二巻『所収、冬樹社)において、それこそ支那旅行で病毒を負い、後の自死へと結びついたのではないかという推論を提出していたことを思い出したからでもある。

ソドムの百二十日  パゾリーニ  岡本かの子全集〈第2巻〉 (1974年)

 芥川は『支那游記』で自らいうように「ジヤアナリスト的才能」を発揮する文章に徹し、著名人との会見や通常の旅程に基づく見聞体験を主としているのだが、それでも「上海游記」にあっては「見聞しただけ」との断わりを入れ、「悪の都会」の実相にふれている。犯罪、売淫、阿片窟などが語られ、茶館では薄暮に近い頃から無数の売笑婦が集まり、彼女たちは「野雉(イエテイ)」と呼ばれ、日本人の姿を見ると、「アナタ、アナタ」と集まってくるとレポートされている。夜になると、「人力車に乗った野雉たちが、必何人もうろついてゐます。この連中は客があると、その客は自分の車に乗せ、自分は歩いて彼等の家へつれこむと云ふのが習慣」で、「彼等はどう云ふ料簡か、大抵眼鏡をかけてゐます」とも述べられている。もっともそれは支那の「新流行の一つかも」と付け加えているが。

 かつては封建主義者を名乗り、支那にこだわり続けている呉智英がどこかで眼鏡女好きをカミングアウトしていたことを記憶しているが、それは芥川の語るエピソードと重なっているのかもしれない。それはともかく、芥川がいわゆる「猟奇」や「変態」にも言及しているのは印象的で、それらのターム流行の起源は梅原北明たちの出版ではないけれど、上海にあったのではないかとも考えられるのであり、そこにはなんとサドも登場し、「魔鏡党」とか「男堂子」も挙がっている。

 男堂子とは女の為に、男が媚を売るのであり、魔鏡党とは客の為に女が淫戯を見せるのださうです。そんな事を聞かされると、往来を通る支那人の中にも、弁髪を下げたMarquis de Sade なぞは何人もゐさうな気がして来ます。また実際にゐるのでせう、

 またさらに「屍姦」の実例、シベリア方面からの怪しい西洋人たちの徘徊、彼らのいかがわいしいカフェの存在と重なり、郊外に近いデル・モンテにたむろする女たちも英語の詩が引用され、言及されている。

 このような芥川の小説とはニュアンスの異なる記述を読んでいくと、彼がいうところの「ジヤアナリスト的才能」を発揮しての支那ルポタージュを目論んでいたとわかる。それに本探索でも後述することになるが、一九一〇年代から二〇年代、すなわち日本の大正時代はジャーナリズムの台頭、いってみれば、インターナショナルなルポタージュとノンフィクションの隆盛の時期でもあったし、海外の出版状況に通じていた芥川もその事実は十分に承知していたはずだ。いやそればかりか、自らを解放する道筋をそこに求めようとしたのかもしれない。

 しかしそれはかなわず、拙稿「芥川龍之介と丸善」(『書店の近代』所収)でふれておいたように、遺稿となった『或阿呆の一生』や『歯車』へと向かい、自死へと至るのである。彼の死に関してはこれも拙稿「芥川龍之介の死と二つの追悼号」(『古雑誌探究』所収)を参照されたい。

書店の近代―本が輝いていた時代 (平凡社新書) 古雑誌探究


[関連リンク]
 過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら